白山水力
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 東京市麹町区丸ノ内1丁目6番地1 (東京海上ビル) |
設立 | 1919年(大正8年)6月28日[1] |
解散 |
1933年(昭和8年)4月11日[2] (矢作水力と合併し解散) |
業種 | 電気 |
事業内容 | 電気供給事業 |
代表者 | 成瀬正忠(社長) |
公称資本金 | 2000万円 |
払込資本金 | 1250万円 |
株式数 |
旧株:20万株(額面50円払込済) 新株:20万株(12円50銭払込) |
総資産 | 2595万2315円(未払込資本金を除く) |
収入 | 113万5322円 |
支出 | 73万6946円(償却費10万円を含む) |
純利益 | 39万8375円 |
配当率 | 年率6.0% |
株主数 | 4459人 |
主要株主 | 千代田生命保険 (3.3%)、十五銀行 (3.0%)、日本興業銀行 (2.2%) |
決算期 | 3月末・9月末(年2回) |
特記事項:代表者以下は1932年9月期決算時点[3][4] |
白山水力株式会社(はくさんすいりょく かぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。北陸電力送配電管内にかつて存在した事業者の一つ。
白山周辺一帯を水源とする九頭竜川水系・手取川水系の開発を目的として1919年(大正8年)に発足。福井県および石川県において計4か所の水力発電所を運営した。福澤桃介が関係した電力会社の一つで、同じく福澤系の電力会社矢作水力と1933年(昭和8年)に合併した。
会社史
白山水力株式会社は1919年(大正8年)6月28日に設立された[1]。設立にあたったのは、後に大手電力会社大同電力の社長となる福澤桃介や、磐城セメント(現・住友大阪セメント)社長の岩崎清七、それに伊丹二郎・成瀬正忠らである[5]。設立時の資本金は1000万円(うち250万円払込)で、初代社長に伊丹が就任、福澤は相談役に回った[5]。発起段階では「中部電力」の社名が予定されていたが、計画中の発電所が白山一帯を水源とする河川であったことにちなんで白山水力の名が採用された[5]。本社は東京市麹町区永楽町1丁目1番地(1929年4月に麹町区丸ノ内1丁目6番地1と変更[6]、現・東京都千代田区)に置いた[1]。
白山水力は発起人が取得していた福井県九頭竜川水系および石川県手取川水系における水利権を継承する[5]。そしてこれらの開発を進め、1923年(大正12年)以降、下記#発電所一覧にある通り計4か所の水力発電所を建設していく[5]。開発の一方、社内では1920年(大正9年)2月に社長が伊丹から小林源蔵と交替[7]。次いで1922年(大正11年)7月には元富山県知事で県営電気事業を起こした東園基光が社長となる[5]。東園の在任は1926年(大正15年)4月までで[5]、その後は十五銀行頭取成瀬正恭の弟成瀬正忠が専務から昇格して社長を務めた[8]。また資金面では1926年4月に倍額増資が決議され、資本金が2000万円となった[5]。
白山水力の大口供給先は中京地方に供給する大手電力会社の東邦電力であったが、供給契約の満期にあたり更改交渉が難航したため一歩進んで両社合併してはどうかとの案が出て、1931年(昭和6年)7月には両社間の正式交渉まで進んだ[9]。しかしこの合併は成立せず、結局その1年半後に白山水力は矢作水力株式会社に合併されることとなった。この矢作水力も中京地方の会社で、愛知・岐阜両県にまたがる矢作川水系の開発を目的に1919年3月に発足[10]。白山水力と同様に福澤桃介が相談役におり、当時桃介の長男駒吉が社長を務めていた[11]。
合併は1932年(昭和7年)11月18日、矢作水力側の株主総会にて決議された[12]。翌1933年(昭和8年)1月31日に逓信省より合併認可があり、2月28日付で契約に基づき合併実施に至った[12]。合併比率は白山水力10に対し矢作水力7.5[4]。4月11日には矢作水力にて合併報告総会が開かれて合併手続きが完了し[13]、同日をもって白山水力は解散した[2]。合併に伴い社長の成瀬は矢作水力の副社長に転じた[8]。
発電所一覧
白山水力が建設・運営していた発電所は以下の4か所で、いずれも水力発電所である。
西勝原発電所・第二発電所
白山水力が最初に建設した発電所が西勝原発電所(にしかどはらはつでんしょ)である。所在地は福井県大野郡五箇村[14](現大野市西勝原・北緯35度57分37.0秒 東経136度36分51.0秒)。
九頭竜川から取水する水路式発電所であり、1923年(大正12年)10月に運転を開始した[5]。発電所出力は当初1万5,000キロワット、1927年(昭和2年)の増加後は2万キロワット[5]。ボービング (Boving) 製フランシス水車とウェスティングハウス・エレクトリック製6,000キロボルトアンペア発電機を各4台備える[14]。また本発電所建設の際に放水路と九頭竜川の間に生じた落差を活用するため、放水路発電所として西勝原第二発電所も建設された[15]。第二発電所の出力は1927年12月の運転開始当初は640キロワット、のち800キロワット[16]。ボービング製カプラン水車とブラウン・ボベリ製800キロボルトアンペア発電機を各1台備えた[14][15]。
会社設立の段階では、西勝原発電所の発生電力の半分を水利権申請が競願となっていたという地元福井の京都電灯に対し供給する予定であったが、実際には大部分が東邦電力への供給に回された[5]。送電線は白山水力・大同電力・東邦電力の3社共同、具体的には西勝原発電所から関(岐阜県)までを白山水力、そこから先を大同電力、最後名古屋市内までと終端の変電所を東邦電力が建設する、という形で整備された[17]。逓信省の資料よると1932年9月末時点で東邦電力は大同電力経由で西勝原発電所の発生電力のうち1万9,000キロワットを受電していた[18]。また送電線は故障時の電力融通用として、1924年10月下流の大同電力西勝原発電所との間にも整備された[5]。
西勝原発電所は白山水力と矢作水力の合併後、1941年(昭和16年)10月に日本発送電へ出資された[16]。日本発送電では放水路の第二発電所と一体化され出力2万800キロワットの「西勝原第一発電所」となっている[16]。戦後1951年(昭和26年)5月以降は北陸電力に帰属する[16]。
吉野谷発電所
白山水力が手取川水系で最初に建設した発電所が吉野谷発電所である。所在地は石川県石川郡吉野谷村[14](現白山市木滑新・北緯36度18分1.0秒 東経136度38分22.3秒)。
手取川支流の尾添川から取水する水路式発電所である[5]。会社設立翌年に着工、不況による工事中断を挟んで1926年(大正15年)5月に運転を開始した[5]。出力は当初6,250キロワットであったが翌1927年に1万2,500キロワットへと増強されている[5]。主要設備はボービング製フランシス水車2台とゼネラル・エレクトリック製7,500キロボルトアンペア発電機2台[14]。送電線は西勝原発電所との間に整備されている[19]。発生電力については1924年2月に東邦電力との間で供給契約が締結されており[5]、同社へと送電された[17]。1932年9月末時点では、東邦電力は西勝原発電所分と同様大同電力経由にて吉野谷発電所発生電力のうち1万1,400キロワットを受電していた[18]。
吉野谷発電所は、矢作水力との合併ののち1942年(昭和17年)4月に日本発送電へ出資された[20]。戦後は西勝原第一発電所と同じく北陸電力に帰属する[20]。
鳥越発電所
白山水力が最後に建設した発電所が鳥越発電所である。所在地は石川県能美郡鳥越村[14](現白山市)。
運転開始は1928年(昭和3年)12月[5]。手取川上流部の牛首川と支流の下田原川から取水する水路式発電所であり、出力は1万3,000キロワットである[5]。ボービング製フランシス水車2台とブラウン・ボベリ製8,000キロボルトアンペア発電機2台を備えた[14]。鳥越発電所の発生電力は京都電灯が受電用送電線を建設して引き受けた[21]。1932年9月末時点で京都電灯は白山水力より福井県内の花房開閉所にて1万2,000キロワットを受電している[22]。
矢作水力との合併後は吉野谷発電所と同様に1942年4月に日本発送電へ出資され、戦後は北陸電力に継承されたが、1978年(昭和53年)9月に廃止され現存しない[20]。
供給区域
白山水力は、西勝原発電所が位置する福井県大野郡五箇村と、隣接する阪谷村・下穴馬村(3村とも現大野市)を電灯・電力供給区域に設定していた[23]。このうち五箇村・下穴馬村の配電線工事は1924年(大正13年)3月に完成している[24]。供給は小規模であり、1931年時点では電灯数201灯(事業者用を除く)に過ぎない[25]。
関連会社大北工業
白山水力が出資していた会社に、大北工業株式会社がある。同社は鳥越発電所の余剰電力を活用しカーバイド(炭化カルシウム)を製造するべく、白山水力と大阪財界が出資して1929年(昭和4年)10月に資本金30万円で設立された[26]。工場は町の誘致により石川県金沢市の郊外野々市町(現・野々市市)に建設され[27]、吉野谷発電所から伸びる送電線が整備された[19]。操業開始後、1932年(昭和7年)からはカーバイドに加えフェロアロイの一種フェロシリコンの製造も始めた[26]。
白山水力と矢作水力の合併後も矢作水力が大北工業の株式を保有したままであったが、1939年(昭和14年)9月矢作水力子会社の昭和曹達が株式を譲り受けた[26]。1944年(昭和19年)には昭和曹達が東亞合成化学工業(現・東亞合成)に合併したため同社系列となる[26]。戦後1960年(昭和35年)からは、同業でフェロシリコンを製造する東化工株式会社(現・日本重化学工業)の傘下に入るが[26]、1965年(昭和40年)12月に工場を閉鎖した[27]。
脚注
- ^ a b c 「商業登記 株式会社(設立)」『官報』第2156号、1919年10月10日付。NDLJP:2954269/11
- ^ a b 「商業登記 白山水力株式会社解散」『官報』第2047号、1933年10月26日付。NDLJP:2958519/31
- ^ 「白山水力株式会社第27回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ a b 『株式年鑑』昭和8年度623頁。NDLJP:1075593/328
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『北陸地方電気事業百年史』152-154頁
- ^ 「商業登記 白山水力株式会社変更」『官報』876号、1929年11月29日付。NDLJP:2957343/20
- ^ 「白山水力社長更迭」『東京朝日新聞』1920年2月12日付朝刊
- ^ a b 『人的事業大系』電力篇149-159頁。NDLJP:1458891/97
- ^ 「白山水力と東邦の合併談」『大阪朝日新聞』1931年7月16日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
- ^ 『矢作水力株式会社十年史』2-3頁
- ^ 『矢作水力株式会社十年史』146-147頁
- ^ a b 「矢作水力株式会社第28回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「矢作水力株式会社第29回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ a b c d e f g 『電気事業要覧』第24回611・708-709頁。NDLJP:1077197/332・NDLJP:1077197/381
- ^ a b 『日本の発電所』中部日本篇422-423頁。NDLJP:1257061/94
- ^ a b c d 『北陸地方電気事業百年史』800-801・812頁
- ^ a b 『東邦電力技術史』10頁
- ^ a b 『電気事業要覧』第24回599頁。NDLJP:1077197/326
- ^ a b 『電気事業要覧』第24回851頁。NDLJP:1077197/453
- ^ a b c 『北陸地方電気事業百年史』798-799・811頁
- ^ 『北陸地方電気事業百年史』269-270頁
- ^ 『電気事業要覧』第24回610頁。NDLJP:1077197/332
- ^ 『電気事業要覧』第24回499頁。NDLJP:1077197/276
- ^ 「白山水力株式会社第10回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 『電気事業要覧』第24回158-159頁。NDLJP:1077197/106
- ^ a b c d e 『社史 東亞合成化学工業』345-346頁
- ^ a b 『野々市町史』通史編719-720頁
参考文献
- 企業史
- 逓信省関連
- その他文献