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サクラシンゲキ

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サクラシンゲキ
欧字表記 SAKURA SHINGEKI
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1977年3月5日
死没 1994年8月20日
  (17歳没・旧18歳)
ドン
アンジェリカ
母の父 ネヴァービート
生国 日本の旗 日本北海道静内町
生産者 藤原牧場
馬主 (株)さくらコマース
調教師 境勝太郎美浦
競走成績
生涯成績 26戦9勝
獲得賞金 1億9366万3600円
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サクラシンゲキとは、日本競走馬種牡馬である。典型的な逃げ馬で逃げ一辺倒の戦法の個性派として人気があった。そのレーススタイルから日の丸特攻隊というニックネームがつけられた。1981年優駿賞スプリンター賞を受賞。

すぐ下の半妹にあたるサクラスマイルは1981年のエリザベス女王杯に3着し、サクラショウリとの間にサクラスターオーを送り出したが、スターオー1頭のみを残して死亡した。また、1986年天皇賞(秋)の優勝馬であり、種牡馬としても活動したサクラユタカオーはサクラシンゲキの半弟である。

馬齢は全て旧表記(数え年)にて表記する。

戦績

「サクラ」の冠名境勝太郎厩舎・主戦騎手小島太は、馴染みあるの組み合わせであった。ただ、3歳から4歳春クラシック前までは境厩舎所属の東信二が騎乗していた。その後は小島が主戦となったが、数回ほど東も騎乗した。

1979年の夏に函館競馬場でデビューし3歳時は3戦3勝、いずれも逃げ切りで勝利した。

4歳になってクラシック制覇も期待されるも、弥生賞で6着、皐月賞は不良馬場の影響か10着と大敗、日本ダービーでは逃げ粘るも4着に敗れた。秋になって京王杯オータムハンデを逃げ切って重賞初勝利をあげた。続いてセントライト記念に出走したが5着となって、距離が伸びる菊花賞には出走せず、関東の短中距離重賞路線に参戦することとなった。4歳で有馬記念に出走して10着に敗れた。

5歳になってスプリンターズステークスや京王杯オータムハンデなどを勝利して、短距離路線の関東馬の大将格となった。そしてこの年に新設されたジャパンカップに日本馬代表の一頭として出走することとなった。ジャパンカップでは人気薄のなか直線半ばまで逃げ粘ったものの9着、その後2年連続で有馬記念に出走するも15着に敗れた。

6歳になって、スプリンターズステークス、マイラーズカップと2戦連続で2着となったあと、宝塚記念に出走して8着に敗れ、宝塚記念を最後に現役を引退した。

サクラシンゲキの活躍した時期はグレード制や、短距離路線が整備される前の時代で、これらの整備が始まったのは引退して2年後の1984年からであった。小島も「あと数年生まれるのが遅かったら、シンゲキは間違いなくGIを取っていたと思う」と後年語っている。

日の丸特攻隊

サクラシンゲキの「日の丸特攻隊」というニックネームは第1回ジャパンカップのレース振りによるものである。

2400メートルは本馬が実績を残していた距離ではなく、ホウヨウボーイモンテプリンスといったこの時代のエース格といえる日本馬が出走、さらには海外からの招待馬も実績があり、サクラシンゲキは人気薄であった。逃げを打つことを予想されてはいたが、スタートから飛ばし1000メートル通過ラップが57秒8、1600メートル通過ラップが1分34秒7という、その当時の2400メートルのレースとしては異常なハイペースで逃げている。直線に向いても逃げ粘ったが、最後は馬群に飲み込まれて9着に終わった。しかし、出走馬の多くがこのハイペースに離されずについて行くという厳しいレースで、直線で後ろから襲いかかる海外からの招待馬を相手に回して逃げ粘る姿は、サクラ「シンゲキ」という馬名と相まって「死を覚悟の上で敵艦に体当たりする太平洋戦争末期の旧日本軍の航空機」を連想させたことから、のちに「日の丸特攻隊」というニックネームが付けられた。

おもな勝ち鞍

  • 1979年(3歳)
  • 1980年(4歳)
    • 京王杯オータムハンデ
  • 1981年(5歳)
    • スプリンターズステークス
    • 京王杯オータムハンデ

種牡馬として

引退後は種牡馬となった。複数の重賞馬を輩出した。

父親と同様に、短距離戦やマイル戦を得意とした逃げ馬が多い。内国産種牡馬として残した実績は、評価のあった自身のスピードに負うところが大きい[1]

代表産駒としては、ヒデリュウオー、ユーワビーム、アドバンスモア、ニシヤマショウらがいる。とくにアドバンスモアはスタートから飛ばして無茶とも思われるペースで大逃げを打つことが多かった。

その他、映画「三本木農業高校、馬術部」のモデルとなった元競走馬で馬術競技馬のタカラコスモスは、当馬の産駒である。

こうして同期の馬たちの中では厚遇を受けていたサクラシンゲキであったが、カイバ食いの悪さから1994年8月17日に検査を受けることとなった。この時点では「猛暑の影響から腸の働きが悪い」と思われたが、翌日から容態が急変した[2]。ところが、運が悪いことにお盆休みに発症したために保険会社との連絡が取れず[3]、痛み止めで急場を凌ぐ羽目となった。結局安楽死処置ができぬまま、サクラシンゲキは苦しみながら8月20日の晩に死亡している。

北海道新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)にはサクラシンゲキの祈念碑が建てられている[1]

おもな産駒

ブルードメアサイアーとしてのおもな産駒

血統表

サクラシンゲキ血統グレイソヴリン系 / Nasrullah3×4=18.75%) (血統表の出典)

*ドン
Don
1966 芦毛
父の父
Grey Sovereign
1948 芦毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Blue Gem Baytown
Clang
父の母
Diviana
1957 黒鹿毛
Toulouse Lautrec Dante
Tokamura
Desublea Niccolo Dell'Arca
Durera

アンジェリカ
1970 黒鹿毛
*ネヴァービート
Never Beat
1960 栃栗毛
Never Say Die Nasrullah
Singing Grass
Bride Elect Big Game
Netherton Maid
母の母
スターハイネス
1964 鹿毛
*ユアハイネス
Your Highness
Chamossaire
Lady Grand
スターロツチ *ハロウェー
コロナ F-No.11-c


脚注

  1. ^ 当時の内国産種牡馬代表格であったアローエクスプレスハイセイコーは「スピードが売りの先行馬」である。
  2. ^ 死後の解剖で判明したことだが、このときサクラシンゲキの盲腸は破裂していた。
  3. ^ サクラシンゲキはシンジケート種牡馬ゆえに、保険会社の許可なしには安楽死処置が出来ない。

関連項目

外部リンク