成田山新勝寺
成田山新勝寺 | |
---|---|
成田山新勝寺本堂前広場 | |
所在地 | 千葉県成田市成田1番地 |
位置 | 北緯35度47分9.79秒 東経140度19分5.79秒 / 北緯35.7860528度 東経140.3182750度 |
山号 | 成田山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 不動明王(大聖不動明王) |
創建年 | 940年(天慶3年) |
開基 | 寛朝僧正 |
正式名 | 成田山 金剛王院 神護新勝寺 |
別称 | 成田不動・成田山 |
札所等 | 関東三十六不動霊場三十六番札所 |
文化財 |
光明堂、釈迦堂、三重塔、仁王門、額堂(国の重要文化財) 鐘楼、一切経蔵他(成田市指定文化財) |
法人番号 | 3040005006341 |
成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)は、千葉県成田市にある真言宗智山派の寺であり、同派の大本山のひとつである。本尊は不動明王。関東地方では有数の参詣人を集める著名寺院で、家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多い。不動明王信仰の寺院のひとつであり、寺名は一般には「成田不動」あるいは単に「成田山」と呼ばれることが多い。
2008年4月に開基1070年を迎えた(正確には、開基1068年にあたるが、開基1000年祭を1938年に祝ったため、2008年を開基1070年としている)。
毎年、千葉県警は正月の初詣参拝客数を発表しており、その数は2006年では約275万人、2007年は約290万人となっており、明治神宮に次ぐ全国二位、千葉県内一位である(仏閣としては全国一位)。現在では概ね全国二位が定着しているが、定着前は川崎大師に次ぐ全国三位(仏閣としては全国二位)だった。
寺紋は葉牡丹である。
歴史
成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別出張公開」)が行われた。1703年(元禄16年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺になったが、塔頭寺院が1896年(明治29年)名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。 18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思想の教化に積極的に努めた。1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。
2007年11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m,桁行14m,梁行8m)が完成。
年表
- 939年 寛朝大僧正が平将門の乱平定のため東国に派遣される
- 940年 平将門の乱平定祈願のため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行う
- 1706年 江戸弥勒寺末より離れる
- 1707年 大覚寺末に転ずる
- 1925年 18代住職荒木照定、初の海外視察。場所はロンドン。帰国後の1928年、欧米偏重の風潮を嘆き新更会を結成
- 1938年 開基一千年祭が開かれる。陸海軍機献納、陸軍機「新勝号」の命名式
- 1943年 奥の院境内より1000本の木材を造船用に海軍へ献納
- 1944年 新更会館(現霊光館)に海軍水路部が移駐
- 1946年 大本山に昇格
- 2008年4月 開基1070年
伽藍
境内は広く、新旧のさまざまな建造物が並んで、庶民の信仰の場の雰囲気を残している。江戸中期~末期の建築である仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の5棟が国の重要文化財に指定されている。
成田駅及び京成成田駅の「参道口」から新勝寺への参道が伸びる。参道を10分ほど歩き、急な石段を上った先の台地上に伽藍が広がる。石段の途中に仁王門、石段を上った先の正面に大本堂、その手前右手に三重塔、鐘楼、一切経蔵などが建つ。この他、大本堂の左手に釈迦堂、大本堂背後の一段高くなった地には額堂、光明堂、開山堂、平和の大塔などが建つ。境内の東側は広大な成田山公園になっている。
- 総門
- 開基1070年記念事業として2006年(平成18年)に竣工した。境内入口に建つ。総欅造り。高さ15m、桁行14.2m、梁行6.3m(設計:財団法人建築研究協会 施工:大林組、金剛組、日本木彫連盟江戸木彫刻)。2階部には不動明王や千手観音、大日如来など8体の木製仏像が奉安されている。
- 光輪閣
- 境内入口、仁王門左方に建つ鉄筋コンクリート造建築で1975年(昭和50年)の竣工(設計:石本建築事務所 施工:共同企業体)。護摩祈祷の受付、精進料理の接待など、信徒向けに使われる建物である。
- 仁王門
- 国の重要文化財。参道から大本堂へ至る急な階段の途中に建つ。入母屋造の八脚門で、1830年(天保元年)の建立。
- 大本堂
- 仁王門をくぐり、石段を上りきった正面に建つ、当寺の中心となる堂。本尊不動明王像を安置する。入母屋造り二重屋根の鉄筋コンクリート造で、規模は間口95.4m、奥行59.9m、棟高32.6m。1968年建立(設計:吉田五十八研究室 施工:大林組)。
- 三重塔
- 国の重要文化財。大本堂の手前右手に建つ、1712年(正徳2年)建立の塔。高さ25mの中規模の塔だが、近くにある大本堂に比較して小さく見える。軒裏には垂木(軒を支える棒状の部材)を用いず、雲文を刻んだ板で軒を支える板軒とする。初層は各面の中央を扉とし、その両脇の柱間には十六羅漢の彫刻を施す。この他、柱、長押、貫などの部材に地紋彫りを施すなど、近世建築らしく装飾性豊かな塔である。
- 釈迦堂
- 国の重要文化財。大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂で、1858年(安政5年)建立の旧本堂。後述の光明堂(これも旧本堂)と似た形式になるが、規模はこちらの方が一回り大きく、屋根正面に千鳥破風を付ける点も異なっている。堂の周囲には二十四孝と五百羅漢の浮彫が施されている。
- 額堂
- 国の重要文化財。大本堂左裏の階段を上った先の平地に位置する。1861年(文久元年)に建てられた入母屋造、全面吹き放し(建具や壁を造らない)の堂で、絵馬を掲げるための建物である。東北地方太平洋沖地震以後、掲げてある絵馬(普通の絵馬ではなく額装され絵画のように大きい)が強い余震により落下する恐れが生じたため、立ち入りが一時禁じられ、2015年から2016年にかけて安全確保のための修復が行われた。
- 光明堂
- 国の重要文化財。額堂のさらに先に建つ入母屋造の仏堂で、1701年(元禄14年)建立。釈迦堂が本堂になる前の旧本堂である。愛染明王・不動明王・大日如来が祀られている。愛染明王が祀られた右側は自由に立ち入り可能。成田祇園祭の期間中は霊剣「天国宝剣」[1](あまくにのほうけん)を用いる「天国宝剣頂戴」(お祓い)が受けられる[2]。
- 一切経堂
- 三重塔の前。1722年(享保7年)に建てられた。方三間、宝形造。一切経が収められた輪蔵。
- 平和大塔
- 「平和の大塔」とも称する。境内最奥に建つ、鉄筋コンクリート造、高さ58.1mの多宝塔形の仏塔で、1984年の建立(設計監理:財団法人建築研究協会 施工:大林組)。外観は二重塔だが内部は5階建てである。塔の基壇部分にある1階は霊光殿と称し、大塔入口と写経道場のほか、絵馬などの文化財を展示している。2階は明王殿と称し、不動明王を中心とする五大明王の巨像を安置し、昭和曼荼羅、真言宗祖師伝などの絵画で荘厳されている他、大塔各所を警備するコンソールが置かれている。3階・4階はそれぞれ経蔵殿、法蔵殿と称し、信徒が奉納した不動明王の小像を多数安置している。5階は金剛殿と称し五智如来像を安置する。全館立ち入り自由(1階以外は土足厳禁)で、2階・5階では自分の守護仏を拝むことができる。地下には各国の元首から寄せられた「平和へのメッセージ」を封入したタイムカプセルが、落慶した1984年(昭和59年)、記念に埋められている。このタイムカプセルは2434年に再発掘・開封予定。
- 奥之院
- 成田山新勝寺の本尊である「不動明王」の本地仏「大日如来」が安置されている。通常は閉鎖されており、大日如来の祭礼である成田祇園祭の期間中(その他の例外も有り)のみ開帳される。
- 成田山公園
- 境内の東側一帯に広がる、池を中心とした大公園で、広さは165,000m2。
- 薬師堂
- 成田駅方向から、成田山へ向かう三差路の左側、成田山新勝寺飛地境内に位置する。光明堂が本堂になる前の旧本堂である。1655年(明暦元年)に建立され1855年(安政2年)に現在地に移転した。成田山新勝寺建物としては、現存する中で最も古い建物であるが、創建当時の構造材は少ない。子宝に恵まれなかった市川團十郎 (初代)が参拝したところ1688年に息子・市川團十郎 (2代目)が生まれたという。2011年から2年掛けて保存修復工事が施された。
- 湯殿山権現社
- JR成田駅東口の成田駅前交番裏に位置する。成田山の管理地であり、成田山の祭礼である成田祇園祭は、元々は湯殿山権現の祭りとして執り行われていた。境内には、小さな祠と多くの石碑がある。湯殿山の名は、出羽三山の湯殿山の流れをくむものである。また境内は聖地につき関係者以外立入禁止となっている。
- 交通安全祈祷殿
- 国道51号の成田山入口交差点を入り、少し行くと左側に位置する。その名の通り交通安全祈祷を行う場所。成田山の交通安全祈祷は、昭和30年代より始められた。成田山入口交差点には「仏心で 握るハンドル 事故はなし」と書かれた成田山の看板がある。
-
総門
-
釈迦堂(重要文化財)
-
額堂(重要文化財)
-
光明堂(重要文化財)
-
一切経堂
-
平和大塔
-
奧之院
-
清瀧権現堂
-
開山堂
-
聖徳太子堂
-
仁王門(重要文化財)
-
薬師堂
歴代貫首
- 開山 寛朝僧正
- 中興
- 照範
- 快盛
- 照朝
- 照諦
- 照峯
- 照乗
- 照誉
- 照胤
- 照融
- 照阿
- 照獄→(正)照嶽
- 照順
- 原口照輪
- 三池照鳳
- 石川照勤
- 服部照和
- 池田照誓
- 荒木照定
- 松田照應
- 鶴見照碩
- 橋本照稔
文化財
- 重要文化財
- 建造物5棟(仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂)解説は前出。
- 木造不動明王及び二童子像 - 大本堂に安置する当寺の秘仏本尊。中尊の不動明王像は、坐像で像高約133cm。両脇に二童子をしたがえる。鎌倉時代の作。[3]
その他、鐘楼、一切経堂、薬師堂、清滝権現堂、輪転経蔵(各成田市指定文化財)他多数の文化財を有する。
別院・分院・末寺・末教会
別院・分院・末寺・末教会を合わせて全国に71カ寺ある[4]。
関連施設
- 成田山仏教研究所
- 成田山勧学院(真言宗智山派宗内教育機関)
- 学校法人成田山教育財団
- 成田高等学校・付属中学校
- 成田高等学校付属小学校
- 成田幼稚園
- はぼたん幼稚園
- 社会福祉法人成田山福祉財団
- 成田学園(児童養護施設)
- 公益財団法人成田山文化財団
- 成田山仏教図書館
- 成田山霊光館(歴史博物館)
- 成田山書道美術館
著名な信仰者
- 市川團十郎 - 歌舞伎役者(歴代襲名者の全員)
- 東久邇宮 - 皇族
- 川島正次郎 - 政治家(元自由民主党副総裁)
- 小此木彦三郎 - 政治家(元通商産業大臣)
- 海部俊樹 - 政治家(元内閣総理大臣)
- 井上裕 - 政治家(元参議院議長)
- 千玄室 - 茶道家(裏千家家元)
所在地と交通
- 所在地:千葉県成田市成田1
- JR成田駅、京成成田駅から徒歩10分。元々JR成田線と京成電鉄(敷設当初はそれぞれ成田鉄道[初代]・京成電気軌道)は成田山参拝客輸送を目的に敷設された鉄道である。
- 東関東自動車道成田ICで降り、国道295号の『寺台インター』を直進して国道408号を利用するか、左折して国道51号を利用する。市中心部の主要交差点には番号が振られており、この誘導に沿えば駐車場へ入れる。
- なお明治末から終戦直前にかけては、成宗電気軌道(路面電車。のち成田電気軌道、成田鉄道(二代)を経て鉄道事業から撤退し現在は千葉交通)の不動尊電停が新勝寺の門前に設置されていた。
その他
- 境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。行在所は1933年(昭和8年)11月に史蹟として文部省より指定されたが、1948年(昭和23年)に他の明治天皇関連史跡とともに指定解除されている[5]。
- 高幡不動金剛寺などとともに、関東三大不動の一とされる。関東三大不動の残り1か寺については不動ヶ岡不動(總願寺)、大山不動(大山寺)および高山不動(常楽院)等があげられる。また、高尾山薬王院、川崎大師平間寺とともに真言宗智山派の関東三大本山のひとつとなっている。
- 東京別院深川不動堂(東京都江東区)、川越別院本行院(埼玉県川越市)、名古屋別院大聖寺(愛知県犬山市)、大阪別院明王院(大阪府寝屋川市)など日本各地に別院がある。
- 戦前、「鉄砲の弾から身を守る札」として、身代わり札が流行した。また、成田山号と名づけられた戦闘機が海軍へ、新勝号と名づけられた戦闘機が陸軍に献納された。
- 成田国際空港の新年安全祈願は同寺の作法により執り行われる。日本の特に航空宇宙産業、防衛関連産業では祭礼に当たって日本神道の方式が用いられる事が圧倒的に多い中で極めて珍しい例である。
- 平将門の乱平定に関わる由緒から、将門を祀る築土神社や神田明神の氏子を始めとして将門所縁の人々の中には現在に至っても成田山参拝を良しとしない風潮が残るとされる。(→平将門#調伏伝説)
- 毎年2月3日の節分の日に節分会が開かれ豆まきが行われる[6]。不動明王の前では鬼さえ改心するため鬼はいないとされており、成田山では「鬼は外」を言わず、「福は内」のみを言うのがならわしとなっている。特設舞台を設置して、「特別追儺豆まき式」を行う。特別追儺豆まき式は3回行われ、そのうち第1回・第2回には、大相撲力士とその年のNHK大河ドラマの出演者がそれぞれ5名程度「特別年男」として豆まきに参加する。なお、『風と雲と虹と』(1976年)は平将門が主人公であったことから将門役の加藤剛を始めとした出演者は参加を見合わせている。
- 成田山新勝寺としてのCMは、関東地方の民放キー局では初詣前後にしか行わない。地元千葉県の千葉テレビ放送では2011年頃まではほぼ毎日CMを放送していたが、現在は放送されていない。
- 身代わり札 - 天保2年(1831年)3月、仁王門棟上げ式直前、大工の辰五郎が高さ17メートルの足場から落ちたが、新勝寺の守り札が代わりになって真っ二つに割れ、本人は痛かっただけで怪我一つなかったという伝承に基づく。境内の「お札受け所」にも掲げられている有名な言い伝えである。
- 1950年から青少年の健全な育成を期して「はぼたん日曜学校」を開校。2001年、この活動で正力松太郎賞を受賞した。
- 2014年12月1日、成田山新勝寺の29歳の僧侶が、交際相手の女性を恐喝した疑いで逮捕された[7]。
脚注
- ^ 初代貫首・寛朝が朱雀天皇から下された宝剣
- ^ 成田山祇園会とは 成田山新勝寺
- ^ 本像の画像、解説は次の文献を参照。
* 『解説版新指定重要文化財 彫刻』、毎日新聞社 - ^ 大本山成田山 - 全国の成田山
- ^ 昭和23年6月29日文部省告示第64号により解除
- ^ “成田山新勝寺 恒例の豆まき”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年2月3日). オリジナルの2013年2月6日時点におけるアーカイブ。 2013年2月6日閲覧。
- ^ 成田山新勝寺の29歳僧侶の男、交際相手の女性恐喝容疑で逮捕