小島太
小島太 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道斜里郡小清水町 |
生年月日 | 1947年4月21日(77歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 |
高木良三・東京(1966年3月 - 1976年8月) 高木嘉夫・東京→美浦(1976年8月 - 1983年9月) フリー(1983年10月 - 引退) |
初免許年 | 1966年3月1日 |
免許区分 | 平地競走・障害競走 |
騎手引退日 | 1996年2月28日 |
重賞勝利 | 85勝 |
G1級勝利 | 11勝 |
通算勝利 | 8476戦1024勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1996年(1997年開業) |
経歴 | |
所属 | 美浦T.C. |
小島 太(こじま ふとし、1947年4月21日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の騎手、調教師。美浦トレーニングセンター所属。騎手時代は「サクラ」を冠名とする全演植(ジョン・ヨンシュク)所有馬の主戦騎手を務めた。愛称は「フトシ」。
次男・小島良太はJRA調教助手、三男・小島勝三もJRA調教助手、四男・小島太一はJRA騎手。
経歴
1947年、馬商と装蹄師を兼ねる一家の次男として生まれる(JRAの発表では、誕生日が4月11日となっているが、騎手養成所に入る際の手続きにミスがあったもので、実際は21日)。家業の関係から幼少期より馬に親しんで育ち、7歳の時にゴールデンウエーブが優勝した東京優駿 (日本ダービー)を見て騎手を志す[1]。中学校卒業後に上京し、日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程に第14期生として入所。同期には 田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘(安田は2年、平井は3年、池上は1年遅れでデビュー)らがいる。
騎手課程修了後に東京競馬場の高木良三厩舎に入り、1966年3月に正騎手としてデビュー、7月に初勝利を挙げた。この年は11勝に留まったが、翌年には重賞3勝を含む37勝と躍進。その後、さくらコマースの全演植に才能を見出され、その所有馬の主戦騎手に抜擢された。 1972年に48勝を挙げ、初の関東リーディングジョッキーを獲得[2]。翌年にはサクライワイで函館3歳ステークスを制し、演植に初の重賞をもたらした。以降も安定して年間40勝程度を挙げる中堅上位騎手として定着。同期の池上がこの頃より重賞を勝てなくなり、騎乗数も徐々に減ったのとは対照的な活躍振りであった。1978年にはサクラショウリで東京優駿に優勝、八大競走初制覇を幼少期の憧れであったダービーで果たした。1983年にはフリーに転向し、全演植と正式に騎乗契約を結ぶ。当時、騎手が特定の馬主と正式契約することは珍しいことであった[3]。以降もサクラユタカオー、サクラチヨノオーなど「サクラ」の馬を中心に活躍を続けた。1988年にはサクラチヨノオーで自身2度目の東京優駿優勝を果たした。
1993年に全が死去すると、その9日後にサクラバクシンオーでスプリンターズステークスに優勝した。翌1994年12月には、サクラキャンドルで中央競馬史上12人目の通算1000勝を達成。デビューから28年8ヶ月での達成は、最も遅い記録である。
翌1995年秋に騎手引退を発表、その後サクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹でGI競走2勝を挙げ、1996年2月25日を以て騎手を引退した。通算1024勝は歴代14位記録(当時)。主戦騎手を務めていた「サクラ」の騎乗馬は、横山典弘、蛯名正義等に引き継がれた。
騎手引退後は調教師に転向。1997年、「サクラ」の主戦調教師であり、義父でもあった境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で美浦トレーニングセンターに小島太厩舎を開業した。調教師としては演植から代替わりした全尚烈の所有馬に加え、「カフェ」を冠名とする西川清の所有馬を数々管理しており、 2000年の共同通信杯4歳ステークス[4]、NHKマイルカップ をそれぞれイーグルカフェで制し、厩舎の重賞・GI競走初勝利を挙げている。その後もGI競走3勝を挙げたマンハッタンカフェなどを管理し、西川が使用する勝負服色(黄色と黒が基調)を厩舎のジャンパーに採用するなど、深い関係を続けた。
人物・エピソード
騎手時代のエピソード
- 騎手としての特徴
当時最多勝タイ記録であった東京優駿2勝をはじめ、通算1024勝のうち84勝を重賞で挙げており、ヨーロッパスタイルを取り入れた派手な騎乗フォームもあって「華のある男」と称された。他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あり、「猫とフトシは呼んでも来ない」等と揶揄され[5]、ファンからの好悪がはっきり分かれる騎手であった[6]。東京優駿では1981年にサンエイソロン、1982年にアズマハンターと2年連続で単枠指定の圧倒的一番人気の馬に騎乗するも、共にスタートで出遅れ敗れている。騎手としては野平祐二の影響を強く受けており、ヨーロッパスタイルを取り入れた事も、海外経験豊富であった野平に感化されてのものだった[7]。1983年からは毎年8月にフランスへの遠征を行っており、同地では1990年にドーヴィル競馬場で勝利を挙げている。
また、自らを「気持ちで乗る騎手」としており、特にサクラチヨノオーに騎乗した東京優駿では、メジロアルダンに一度交わされながら、残り50メートルでの差し返しを見せ優勝した。この勝利に関しては、騎手に厳しい境勝太郎が「太だから勝てた」と号泣し[8]、小島と親しい田原成貴も「太さんの魂が入った」と評する[9]など、小島ならではの名騎乗とされている。
- 全演植との関係
前述の通り、サクラの初代オーナー・全演植とは関係が深く、その結び付きは馬主と騎手という関係以上のものがあった。演植は小島を「太」と呼んで息子のように溺愛し、小島もまた演植を「親父」と呼んでいた。演植は在日朝鮮人であり、「自分の国籍のせいでもし太に迷惑が掛かることがあるなら、帰化しようかと考えている」と小島に漏らしたこともあったという[10]。1993年に急性肺炎で入院した際にも、最期まで小島を気に掛けており、その死去から9日後のスプリンターズステークスで優勝した際、小島は「絶対に勝たなくてはいけない、命を賭けても負けられないと思っていた。せめてこのレースまで親父に見ていて欲しかった」と語った[11]。
ただし、1987年頃は一時的にその関係に齟齬が生じており[12]、この時期だけはサクラの馬への騎乗はなかった[13]。
- 人柄
騎手時代の小島は公私に渡り「品行方正」という評価は皆無であった。境勝太郎は「呑んべえ野郎でどうしようもない。レースでも私生活でも、あんなにハラハラさせる奴はいない[14]」と語り、小島も自らを「元祖・不良」と認じている[15]。一方で、同期生の平井、安田、田島、池上や、田島の弟弟子である田原成貴、後輩の横山典弘など、その砕けた人柄を慕う者もおり、関東では「小島ライン」と呼ばれる騎手の繋がりができていたとされる。同時に、岡部幸雄を筆頭として構成された「岡部ライン」の存在も囁かれ、両者は互いに反目しているとも噂された。しかし小島はそうした噂を否定しており、田原との対談において「岡部だって来る者拒まずで色々教えたりしてるんだろうけど、マスコミが必要以上に『軍団』や『グループ』を強調して馴れ合いみたいに受け止められるのは、岡部の本意じゃないはず」と語っている[16]。なお、小島が調教師として重賞・GIを初制覇した際は岡部が鞍上を務めており、晩年の岡部は毎日小島厩舎の調教に参加していたという。[17]。岡部より1歳年上であるが、騎手時代は岡部に「小島君」と呼ばれていた。
酒を通じての交流は競馬界以外にも幅広く、中でも大相撲の元横綱・北勝海(現在の八角親方)とは飲み友達という[18]。
- 少年期
少年時代は騎手になることに対して強迫的な思いを抱いており、背が伸びないように箪笥の引き出しで眠ったその際に「足が大きいと背が伸びる」という話から足を包帯で小さく巻き付けていた[19]、「大きくなったね」という親戚の言葉に逆上し、包丁を持ち出して家から追い出した等数々のエピソードが伝えられている。騎手養成課程を受験した時も「もし落第したら青函連絡船から飛び降りて死ぬ」という覚悟であったという[20]。また中学生の時、たまたま出くわした競馬関係者という高校生に対し「東京で騎手になりたいんです」と打ち明けた所「無理だね。君は背が大きすぎる」と突き放されたという話がある。この高校生は、後に三冠馬ミスターシービー等を管理する松山康久で、東京から修学旅行で北海道を訪れていた[21]。実際に小島は騎手課程受験時点で身長163cm、体重50kgと、騎手を目指すにはかなり大柄だった。
調教師時代のエピソード
境勝太郎から管理を引き継ぐ形で厩舎を開業したが、直後に境の娘である前夫人と離婚。この際に意見した横山典弘と、その後一時疎遠になった。
また、境から引き継いだサクラローレルの引退式の際、調教師台に自ら上った。しかし高い素質を持ちながら故障を繰り返したサクラローレルをGI馬に仕上げたのは境の手腕によるところが大きく、さらにサクラローレルがGIを2勝した際の管理調教師も境であったため、この行為は物議を醸した。特に大川慶次郎は著書『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザ・マサダ)の中で、「小島太という人間に疑いを持ちました」と痛烈に批判した。
騎手時代とは打って変わって、調教師になって以後は派手な遊びは鳴りを潜めている。本人曰く、騎手時代は「現実の自分とはまったく別の"騎手・小島太"というフィクションが独り歩きしていた」といい、厩舎開業以後は「裏方に徹することにした」と語っている。今は厩舎を自ら掃除するのが日課で「厩舎を訪ねてきた新米記者が、掃除中の小島太に対し『先生いますか?』と聞いてきた」「それまでプライベートでは無駄金の使い放題だったのに、厩舎経営になると水や電気は節約しろだの口を酸っぱくしていう」など、かつてのイメージとは180度異なる経営者としての顔を見せている[18]。
騎手成績
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 1,018 | 934 | 870 | 5,638 | 8,460 | .120 | .231 |
障害 | 6 | 3 | 1 | 6 | 16 | .375 | .563 |
計 | 1,024 | 937 | 871 | 5,644 | 8,476 | .121 | .231 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初騎乗 | 1966年3月5日 | - | オモダカ | - | - | 10着 |
初勝利 | 1966年7月9日 | - | アサヒオール | - | - | 1着 |
重賞初騎乗 | 1966年11月6日 | 牝馬特別 | アサヒオール | 10頭 | 7 | 7着 |
重賞初勝利 | 1967年5月13日 | 東京障害特別 | グローリターフ | 7頭 | 5 | 1着 |
GI級初騎乗 | 1967年12月24日 | 有馬記念 | タマクイン | 14頭 | 11 | 10着 |
GI級初勝利 | 1978年5月28日 | 東京優駿 | サクラショウリ | 20頭 | 2 | 1着 |
※中央競馬成績のみ。
- 関東リーディングジョッキー1回(1972年・48勝)
- 年間最多59勝(1981年)
- 重賞競走85勝(うちGI級競走11勝、交流重賞1勝)
主な騎乗馬
※括弧内は小島騎乗による優勝重賞競走。太字はGI級競走(グレード制導入以前の安田記念、スプリンターズステークス除く[22])。
- タマクイン(関屋記念、毎日王冠)
- ハードウェイ(4歳牝馬特別・東、クイーンステークス)
- トキノシンオー(毎日王冠、新潟記念)
- トーヨーアサヒ(ダイヤモンドステークス、アルゼンチンジョッキークラブカップ)
- サクライワイ(スプリンターズステークス2回、安田記念、函館3歳ステークス)
- ヒシスピード(北海道3歳ステークス、京成杯、東京4歳ステークス)
- サクラショウリ(1978年東京優駿、宝塚記念、セントライト記念、アメリカジョッキークラブカップ、目黒記念、東京4歳ステークス)
- スリージャイアンツ(ダイヤモンドステークス)
- ビンゴガルー(皐月賞、京王杯オータムハンデキャップ)
- サクラシンゲキ(京王杯オータムハンデキャップ2回)
- サンエイソロン(スプリングステークス、NHK杯、京都新聞杯、大阪杯)
- ピュアーシンボリ(ステイヤーズステークス2回)
- アズマスカレー(シュンエイ記念、セイユウ記念)
- ウルフケイアイ(セイユウ記念2回)
- サクラサニーオー(アルゼンチン共和国杯、京成杯)
- サクラユタカオー(天皇賞・秋、大阪杯、毎日王冠、共同通信杯4歳ステークス)
- サクラチヨノオー(朝日杯3歳ステークス、東京優駿、弥生賞)
- サクラホクトオー(朝日杯3歳ステークス、セントライト記念、アメリカジョッキークラブカップ)
- ビッグファイト(京成杯3歳ステークス、新潟3歳ステークス)
- サクラバクシンオー(スプリンターズステークス2回、スワンステークス、ダービー卿チャレンジトロフィー、クリスタルカップ)
- サクラチトセオー( 天皇賞・秋、中山記念、アメリカジョッキークラブカップ、京王杯オータムハンデキャップ)
- サクラローレル(金杯・東)
- サクラキャンドル(エリザベス女王杯、クイーンステークス)
- サクラスピードオー(京成杯、共同通信杯4歳ステークス)
調教師成績
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 307 | 294 | 275 | 2,298 | 3,174 | .097 | .189 |
障害 | 2 | 6 | 1 | 18 | 27 | .074 | .296 |
計 | 309 | 300 | 276 | 2,316 | 3,201 | .097 | .190 |
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初出走 | 1997年3月8日 | 1回中京3日12R | 5歳上500万下 | ペラリ | 16頭 | 14 | 12着 |
初勝利 | 1997年3月9日 | 2回中山6日3R | 4歳新馬 | ビックアイネス | 16頭 | 1 | 1着 |
重賞初出走 | 1997年3月23日 | 3回中山2日11R | 日経賞 | マウンテンストーン | 10頭 | 2 | 2着 |
GI初出走 | 1997年4月27日 | 3回京都4日10R | 天皇賞(春) | サクラローレル | 16頭 | 1 | 2着 |
重賞初勝利 | 2000年2月6日 | 1回東京4日11R | 共同通信杯4歳S | イーグルカフェ | 11頭 | 4 | 1着 |
GI初勝利 | 2000年5月7日 | 2回東京6日11R | NHKマイルC | イーグルカフェ | 18頭 | 2 | 1着 |
※中央競馬成績のみ。2008年終了時点。
- 優秀調教師賞(関東)3回(2002年、2004年、2006年)
主な管理馬
関連著作
- 著書
- 映像
- 『小島太 -我が騎手人生-』(ポニーキャニオン、1996年)
脚注
- ^ 木村 48頁。
- ^ 全国リーディングは関西所属の福永洋一で、105勝と圧倒的な勝利数だった。 一方、関東では年頭に発生した馬インフルエンザの影響で1、2月の東京開催が中止、また、加賀武見らベテラン騎手が絶頂期で勝利が分散したこともあり、この時期の最多勝では最も少ない勝利数である。
- ^ 『優駿』2007 年9月号 140頁。
- ^ 騎手時代から共同通信杯に強く、前身の東京4歳ステークスから数えて騎手時代に4勝、調教師時代に2勝の計6勝(2008年終了時点)を挙げており、最多勝記録を保持している。
- ^ 競馬歴史新聞編纂委員会編『競馬歴史新聞』(日本文芸社、1999年)231頁。
- ^ 小島自身も「ファンからしたら、日本一下手だと思う奴が半分で、まあ、上手いと言ってくれる奴も半分いるかも知れないけど、その位の評価だと思うよ」と語っている。(田原 215頁)
- ^ 『優駿』2007年9月号 139頁。
- ^ 『Number PLUS』119頁。
- ^ 田原 205頁。
- ^ この時小島は「感謝する事こそあれ、迷惑など毛ほども受けていない。そんな事はしなくていい」と返答している。(木村 54頁)
- ^ 小島は1987年に実父が死去した際にも、6日後にサクラチヨノオーで朝日杯3歳ステークスに優勝している。
- ^ 木村 247頁。
- ^ この時期にはクラシック二冠を制したサクラスターオーがいたが、同馬は旧4歳2戦目の弥生賞から東信二が主戦騎手を務めた。弥生賞出走は小島には知らせずに行った。
- ^ 『Number Plus』118頁。
- ^ 田原 162頁。
- ^ 田原 166頁。
- ^ 小島良太公式ブログ 2011.5.21
- ^ a b 『競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)2010年4月号・p.76
- ^ 『優駿』2007年9月号 137頁。
- ^ 『優駿』 2007年 9月号 138頁。
- ^ 寺山 187頁。
- ^ 現行はGI競走であるが、前者はグレード制導入以前はハンデキャップ競走、後者はGIII競走であったため。
- ^ 2015年中日新聞杯レース結果 - netkeiba.com 2015年3月16日閲覧
参考文献
- 木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)「三人の親父 - 小島太」
- 田原成貴『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジン・マガジン、1996年)
- 日本中央競馬会『優駿』 江面弘也「名ジョッキー列伝 - 小島太」
- 寺山修司『競馬への望郷』(角川文庫、1993年)「騎手伝記 - 小島太」