地方競馬
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地方競馬(ちほうけいば)とは、日本における馬券発売を伴う競馬の法令上の興行形式のひとつである。現行の競馬法の下では地方公共団体によって施行される公営競技であり、日本中央競馬会(JRA)の施行する「中央競馬」と対をなす法令用語となっている[1]。2015年現在で14主催者15競馬場が存在し、競馬法に基づく地方共同法人である地方競馬全国協会がこれを統括する。別称として「
概要
戦前の公認競馬から国営競馬を経て、政府によって出資される特殊法人である日本中央競馬会によって施行されている現在も国庫への納付金を課せられている中央競馬に対して、現在の地方競馬は都道府県ないしは競馬場が所在する総務大臣が指定した市町村、あるいは左記の地方公共団体で構成される一部事務組合が施行する競馬である[注 1][2]。2014年現在、日本での馬券発売を伴う競馬全体において在籍頭数のおよそ6割、競走数の約8割を占める[注 2][3][4][5]。勝馬投票券における控除率は20〜30%であり[6][7]、その収益は主催自治体の畜産の振興、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、スポーツの振興、災害の復興に当てられるほか[8]、競馬を施行していない地方公共団体に対しても地方公共団体金融機構の貸出金利引き下げによって還元される[9]。また、地方競馬全国協会を通じても広く馬の改良増殖や畜産振興のために用いられている[10]。しかしながら、1990年代以降は景気後退や娯楽の多様化などによって開催成績の低迷が続いているため、競馬事業を廃止する自治体も現れている。
地方競馬場
地方競馬場一覧
平地競走の競馬場については、盛岡競馬場を除きダートコースのみが設けられており芝コースは存在しない[注 3][11]。
地方 | 都道府県 | 所在地 | 競馬場名 | 主催者 | 所属 |
---|---|---|---|---|---|
北海道 | 北海道 | 日高町 | 門別競馬場[注 4] | 北海道(業務委託:北海道軽種馬振興公社) 通称:ホッカイドウ競馬 |
北海道 |
帯広市 | 帯広競馬場[注 5] | 帯広市(業務委託:株式会社コンピューター・ビジネス) 通称:ばんえい競馬(ばんえい十勝) |
ばんえい | ||
東北 | 岩手県 | 盛岡市 | 盛岡競馬場 | 岩手県競馬組合 (岩手県、盛岡市、奥州市) |
岩手 |
奥州市 | 水沢競馬場 | ||||
南関東 | 埼玉県 | さいたま市 | 浦和競馬場 | 埼玉県浦和競馬組合 (埼玉県、さいたま市) |
浦和 |
千葉県 | 船橋市 | 船橋競馬場 | 千葉県競馬組合 (千葉県、船橋市、習志野市) |
船橋 | |
東京都 | 品川区 | 大井競馬場 | 特別区競馬組合 (東京都特別区) 通称:TOKYO CITY KEIBA(TCK) |
大井 | |
神奈川県 | 川崎市 | 川崎競馬場 | 神奈川県川崎競馬組合 (神奈川県、川崎市) |
川崎 | |
北陸 | 石川県 | 金沢市 | 金沢競馬場[注 6] | 石川県(石川県競馬事業局) | 金沢 |
金沢市 | |||||
東海 | 岐阜県 | 笠松町 | 笠松競馬場 | 岐阜県地方競馬組合 (岐阜県、笠松町、岐南町) |
笠松 |
愛知県 | 名古屋市 | 名古屋競馬場 | 愛知県競馬組合 (愛知県、名古屋市、豊明市[注 7]) |
愛知 | |
近畿 | 兵庫県 | 尼崎市 | 園田競馬場 | 兵庫県競馬組合 (兵庫県、尼崎市、姫路市) |
兵庫 |
姫路市 | 姫路競馬場 | ||||
四国 | 高知県 | 高知市 | 高知競馬場 | 高知県競馬組合 (高知県、高知市) |
高知 |
九州 | 佐賀県 | 鳥栖市 | 佐賀競馬場 | 佐賀県競馬組合 (佐賀県、鳥栖市) |
佐賀 |
休止中または廃止された競馬場については、日本の廃止・休止競馬場一覧を参照のこと。
開催回数
地方競馬は競馬法および競馬法施行規則により年間開催回数と1開催あたりの開催日数、1日あたりの競走回数が定められている。1回の開催における開催日数は、6日を超えず、1日の競走回数は12回を超えない。 1回の開催における日取りは、連続する12日間の範囲内の日取りとする。年間開催回数については下表で定められた回数を超えない[12]。
都道府県 | 年間開催回数 |
---|---|
北海道[注 8] | 43回 |
兵庫 | 29回 |
愛知 | 28回 |
岩手、東京、石川、岐阜、佐賀 | 21回 |
高知 | 19回 |
神奈川 | 15回 |
埼玉、千葉 | 13回 |
勝馬投票券
発売
場外勝馬投票券発売所及び電話投票も併せて参照。
2014年11月現在、後述の10方式が設定されている[13]。南関東や東海・北陸といったブロック単位での相互発売や広域場間場外発売の設定によって、自場以外で開催されている勝馬投票券の購入も可能である。各主催者がそれぞれ場外発売所を設けているほか、地方競馬全国協会と全国公営競馬主催者協議会が出資する日本レーシングサービスがBAOOの名称で各地に場外発売所を展開している[14]。電話・インターネット投票については、東京都競馬によって運営されるSPAT4、旧来の各主催者ごとの電話投票網を統合したD-netを引き継いだオッズパーク、インターネット投票専業で新規参入した楽天競馬が存在し、また中央競馬の一部電話投票システムでも地方競馬IPATの対象となっている競走については購入することができる[15]。
発売種類
- 単勝式
- 複勝式
- 枠番号二連勝複式(枠複) - ばんえい競馬では設定なし
- 枠番号二連勝単式(枠単) - 南関東・金沢のみ設定
- 普通馬番号二連勝複式(馬複、普通馬複)
- 馬番号二連勝単式(馬単)
- 拡大馬番号二連勝複式(ワイド) - ばんえい競馬では設定なし
- 馬番号三連勝複式(3連複)
- 馬番号三連勝単式(3連単)
- 重勝式 - インターネット投票のみ
- 5重勝単勝式 - ばんえい競馬・岩手・笠松・兵庫・佐賀で設定
- 7重勝単勝式 - ばんえい競馬・佐賀で設定
- 3重勝馬番号二連勝単式 - 北海道・南関東で設定
交流競走の増加とそれに伴う場外発売の増加に伴い、2003年4月からは単勝式・馬複・馬単の3種類については交流競走を発売する全ての競馬場・場外発売所で発売するというルールが導入された。同時に8頭立て以下の競走については枠複・枠単を発売せず、馬複(およびワイド)・馬単での発売となった。
また、日本中央競馬会(JRA)が運営する「地方競馬IPAT」での発売開始にあわせ、ばんえい競馬と南関東地区を除く多くの主催者で賭式の統一化が図られ、JRAと同様の8種類にほぼ統一された。
ワイド導入に伴い、一部の競馬場では普通馬番号二連勝複式の略称を「普通馬複」と表記する場合もある。
歴史
公営化以前
戦前の歴史については競馬の歴史 (日本)も参照。
祭典競馬と「地方競馬」
日本においては中世以来、祭りの中で神社などに即席の直線馬場を設けて2頭の馬を競わせる形式の競馬が全国各地で広く行われていた[16]。こうした祭典競馬・花競馬と呼ばれる日本古来の競馬に対して、1860年代より横浜や神戸の外国人居留地においてイギリスを起源とする西洋式の競馬が行われるようになる[注 9][17]。これは1870年の陸軍による招魂社競馬を皮切りに日本人によっても執り行われ[18]、不平等条約改正を目指す日本政府によって、日本が西洋諸国と同等の文明国となった象徴として喧伝された[17]。そして祭典競馬がその様式を模するなどして、全国各地で次第に洋式競馬が行われるようになっていく[18]。
そして1910年に競馬規程が改正された際に、祭典などの娯楽のために競馬を行うことが法的に認められるとともに[注 10][19]、地方長官による許可と賞品・開催費の補助のもとで畜産組合らが競馬を施行することができるとされた[注 11][20][21]。続く1923年の競馬法においては政府が公認した競馬倶楽部による公認競馬のみが競馬を施行し馬券発売を行うことができるとされたが、各地の畜産組合による競馬の中にも公認競馬に倣って入場券による景品競馬[注 12]のみならず、馬券の発売を実施するものが多く現れるようになる[22]。しかしながら、これは同時に山師的な主催者による競馬場の過剰なまでの増加や、入場券の制限が公然と破られるなどの問題を引き起こした。そしてこうした競馬を政府の統制下に置くために、ついに地方競馬規則(1927年8月27日 農林・内務省令)が施行されるに至るのである[23]。この中では地方長官の許可のもとで各地の畜産組合、畜産組合連合会、馬匹改良を目的とする団体を施行することができるとされ、またその施行について統一的な規定が定められた[注 13][24]。法令用語としての地方競馬の呼称はここに始まる[25]。
1927年秋に52主催者59競馬場で始まった地方競馬は、公認競馬を含めた競馬熱の高まりの中で順調に開催成績を伸ばしていく[26]。公式には禁じられていたが、実際には公認競馬との間で人馬の流動性も高かった。また「地方競馬規則」の制定に先立つ1926年には大日本産馬会、日本乗馬協会、帝国運送協会の3団体とその関連組織が合同し、馬事関連の全国的な組織である帝国馬匹協会が創設されていた。これが地方競馬主催者の全国的な連絡組織として機能し、馬名の登録や騎手の講習も実施している[27]。
軍部の統制
このようにして法的な地位を得た地方競馬であったが[注 14]、これは同時に軍馬用途を目的とした馬匹の改良と馬事思想の普及という国策の中へはっきりと組み込まれることを意味した。実際に、農林省や陸軍省からそれ自体は軍馬には向かないサラブレッドによる競馬は公認競馬に譲り、地方競馬ではより軍馬に適したアングロアラブ・アングロノルマンによる競馬を、さらには平地競走ではなく障害競走や速歩競走を行うべきという意見が当初から出されている[28][23]。1933年には地方競馬規則が大幅に改正され、一定以上の売上規模を誇る主催者はその売上の一部を馬匹改良・馬事関わる施設のために支出すること、出走を内国産馬に限ること、速歩競走を重視することが定められた[29]。また1936年に公認競馬側が日本競馬会に統合されると、相互の交流は一層厳しく統制された。
そして日中戦争の勃発とそれによる軍馬需要の急激な増大を背景に、1939年7月3日より新たに軍馬資源保護法が施行される。これによってそれまで地方競馬とされてきた競馬は馬券発売を認められた軍用保護馬鍛錬競走へと移行し、「国防上特ニ必要トスル馬ノ資質ノ向上ヲ図リ軍馬資源ノ充実ヲ期スルコト」がその目的となった[30][31]。これによって当時100を越えていた地方競馬場の多くが閉鎖され、都道府県ごとに存在した畜産組合連合会35団体のもとで37個へと集約される。売上金の一部を国庫へ納入する機能を有していた軍用保護馬鍛錬中央会がこれを統括し[29]、のちに太平洋戦争が勃発するとこれは国家総動員法体制下で帝国馬匹協会、大日本騎道会とともに日本馬事会へと統合された[32][33]。この鍛錬競走は、いよいよ戦局が悪化する1944年末まで続く。
闇競馬から馬連競馬へ
第二次世界大戦終結後、軍馬資源保護法ならびに国家総動員法が廃止されたことで、地方競馬はその法的根拠をふたたび喪失した。しかしながら、早くも1945年秋には静岡県で法的根拠を持たない闇競馬が開催されるや、地方競馬の開催を望む機運は全国へと波及していく[34]。また1946年春になると、農林省ら中央政府の黙認下で地方長官の認可と条例をもとに競馬を施行し、その売上の5%前後を戦災復興や海外引揚者への支援金のため地方自治体へ寄付する事例も多く見られるようになった[注 15][34]。また北海道においては、進駐していたアメリカ軍第11空挺師団がアメリカ独立記念日を祝うために競馬の施行を北海道馬匹組合連合会に要請。1946年7月6日から進駐軍競馬として競馬が再開されることとなり、札幌、函館、室蘭の3都市で開催されている[35]。
そして1946年11月20日、ようやくこの無法状態に終止符を打つべく地方競馬法が施行される[36]。これは戦前の地方競馬規則と同様に馬匹組合・馬匹組合連合会が競馬を施行することを認めるものであり[注 16]、その中央団体として中央馬事会が置かれた。鍛錬競走時代に引き続き馬券の発売も認められたほか、配当の上限も従来の10倍から100倍へと引き上げられている[36]。また戦前に引き続きサラブレッド・アングロアラブら軽種馬を中心としていた日本競馬会に対し、各地の農業生産と密着した実用馬を用いることが打ち出され[注 17]、民主化の世相を反映しその収益の使途も各馬匹組合連合会および中央馬事会の裁量に任されていた[37]。しかしながらこれらの馬連競馬は闇競馬時代からの連続性が強く、また敗戦直後の社会情勢もあって競馬場での騒擾事件が頻発する[36]。
GHQと競馬法成立
1947年7月、連合国軍最高司令官総司令部より日本競馬会及び上記の中央馬事会、馬匹組合連合会が、「競馬事業を独占している独占機関である」との通告がもたらされる[注 18][38][29]。GHQが志向していたであろう完全な民営化、そしてそれがもたらすと考えられた反社会的勢力の競馬へのさらなる蔓延を防ぐため、同年12月23日の閣議決定において、従来の公認競馬は国営化、馬連競馬は公営化し都道府県にこれを委ねることが決定された[38]。各地の馬連は1948年春の開催を強行するなどの抵抗を続けたが解散・資産の委譲を迫られ、中央馬事会も1948年7月に解散を余儀なくされる[39]。
そして1948年7月、競馬法が成立。これによって馬連競馬の資産及び開催権は都道府県、競馬場が所在する市町村、そして地方財政委員会が別途指定した戦災復興の中で自主財源不足に苦しむ市町村へと移り、地方競馬は現在まで続く公営競技へと大きな転換を果たすこととなる[40]。
公営化後
戦後派として
競馬法が施行された1948年、公営競技へ移行し競馬を開催した地方競馬場は全国で61箇所存在した[41]。だが当然ながら、公営化によって当時の地方競馬が抱えていた問題が一挙に解決するはずもない。馬資源の不足は深刻であった。中間種が競走に盛んに用いられ、馬籍登録を偽った競走馬が蔓延したほか、北海道では輓馬を平地競走で走らせるような奇策すら取られた[42]。また競馬法が成立したのとほぼ時を同じくして、自転車競技法が国会を通過。11月には小倉競輪場で日本初となる競輪が開催されると、この戦後生まれの公営競技は大衆から爆発的な人気を獲得する。その後も1950年には小型自動車競走法によってオートレースが、1951年にはモーターボート競走法に基づき競艇が開始され[注 19]、それぞれ順調に売上を伸ばしていった[43]。一方で戦前以来の旧態依然とした施設に頼る各地の地方競馬場は開催成績が低迷し、急速にその数を減らしていく[注 20][44]。敗戦の衝撃から少しずつ立ち直りつつあった戦後社会の中で、公営競技の地方競馬がいかに存在すべきかが問われていた。
しかしながら、1951〜1952年、1956年の2度にわたる民営化議論の中で全国公営競馬競技会がその代表機関として活発な活動を見せていたとはいえ[45][46]、地方競馬には未だその全体を統括するような中央組織を欠いていた。それぞれの主催者は高い独立性を保ったまま、各々の地域の事情に合わせて発展していくことになる。
1972年1947年の浦和競馬場を皮切りに、のちに南関東を構成する4競馬場は交通の利便性が高い土地へと移転を進める。これによる順調な売上の増加を背景にスターティングゲートの導入や大井による豪サラ輸入のような先進的な施策を進め、国営・中央競馬へ移籍し大競走を制しうるような名馬が数多く現れるに至った。なによりもアングロアラブ競馬においては、質・量ともに国営・中央競馬を凌ぐ堂々たる繁栄をみせている[47]。北海道ではその地理的条件から、道内の各競馬場を人馬ともに関係者が渡り歩くジプシー競馬とも呼ばれる興行形態が長く残った[注 21][48]。ばんえい競馬が公営競技として根付きはじめたほか[注 22][49]、戦前以来の十勝におけるアングロノルマン生産を背景に[注 23]、速歩競走が1960年代初頭まで重要な地位を占めた[50]。関西方面へ目を移すと、大井と同じく豪サラを導入した兵庫競馬は、その扱いに慣れないところにコースの手狭さもあって故障馬が続出。頭数の少なさから競走が成り立たず、みすみす国営競馬への流出を許してしまった経験から[注 24][51]、以後はアングロアラブ専業の競馬場としてアラブのメッカへの道を歩む[52][53]。大阪競馬場・春木競馬場では障害競走が人気を博し、紀三井寺は北海道を始めとする冬期休催競馬場の出稼ぎ先として独自の存在価値を見出した[54]。そのほかの地域においても徐々に施設の近代化が図られ[55]、1970年には大井競馬場でのちに中央競馬へ移籍すると社会現象を巻き起こすハイセイコーがデビューを迎える。このアイドルホースの登場による第一次競馬ブームによって、全国的に開催成績も上向いていった[56]。
ただし、長沼弘毅を委員長として1961年2月に組織された公営競技調査会の答申は大筋として公営競技の現状維持を定めるものであったが[57]、その中では馬・馬主の登録や地方競馬の騎手免許、専門職員の要請・派遣を全国一元的に統括するとともに、広く畜産振興のために還元する組織を設立することが求められていた[注 25]。これを受けて1962年に特殊法人である地方競馬全国協会が設立され、競走馬の登録や騎手・調教師免許の管理は各主催者からこちらへと一元化されている[58]。1963年には新人騎手などの育成を行うために、栃木県那須塩原市に地方競馬教養センターが完成した。
黒い霧の時代から改革へ
一方で、戦後直後の社会情勢下で公営の競馬を開催するにあたっては、必然的に地元のボスたちとの接触が不可欠である[注 26][59]。また兵庫のように馬主らによって組織された振興会が競馬の開催業務に深く関わるなど、公営化されたといっても組織としての透明性が長らく不十分な地域も存在した[60]。騎手や調教師、厩務員への反社会的勢力の浸透も避けられず、1960年代から1980年代にかけて競馬法違反容疑で逮捕・追放された事例は全国的に数多い。競馬場内におけるノミ屋・コーチ屋の跋扈も問題であった。また黒い霧事件を契機に一般社会においても注目を集めた公営競技を取り巻く黒い影の存在は、少しでも怪しい競走が行われた場合に、ファンが八百長を声高に叫び容易に暴徒化する環境を生み出していく[61]。とりわけ、その被害規模の大きさに加えて著名馬が関係していたこともあって、園田事件は現在に至るまでも語り継がれ、兵庫県競馬組合の運営に影を落としている[62][63]。革新自治体における公営競技に対する風当たりも激しく、1964年に大阪競馬場、1974年に春木競馬場が廃止されているほか[64]、大井競馬場においても1972年度をもって東京都が開催権を返上し、特別区競馬組合単独での主催となっている[65]。道営競馬にて、1人当たりの馬券購入額を5000円に制限するような奇策が採用されたことすらあった[注 27][66]。
そしてオイルショック後の社会情勢も影響し、1970年後半に入ると地方競馬の開催成績はふたたび全国的に低迷する[67]。公営競技としての財政貢献もままならないとなれば、各地で競馬場の存廃までも含めた議論が進められることになった[68]。そして1980年代中ごろから、それぞれの主催者が智恵を絞り、様々な振興策を打ち出していく。ただでさえ減少した入場者を不快にすること甚だしかったノミ屋・コーチ屋は、1985年からの全国的な清浄化作戦によって競馬場内から可能な限り閉め出された[69]。顧客の利便性を高めるために、電話投票の導入や昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置、県内・ブロック内の相互場外販売の試みが始まったのもこの時期である[70][71]。中でも岩手県競馬組合は最新鋭の映像伝送システムを駆使したテレトラックと呼ばれる場外網を構築し、急激に売上を伸ばしていった[72]。1986年には、大井競馬場において日本初となるナイター競馬トゥインクルナイターが開催されている[73]。それでも、大胆な振興策を行うだけの体力を有していなかった主催者の開催成績は伸び悩み、なかでも1988年には紀三井寺競馬場が廃止へと追い込まれている[74]。
また、古くから各地区の競馬場間を移籍する馬は数多く存在したが、他地区との間で直接の交流はほとんどないに等しかった。それが、1972年に南関東におけるアングロアラブ古馬最高の競走であったアラブ大賞典が全日本アラブ大賞典として、翌1973年には園田競馬場で3歳馬の楠賞が楠賞全日本アラブ優駿として、それぞれ地方競馬全国交流競走化を果たす。これによって、各地区の代表馬がそれぞれのプライドを賭けて、鎬を削り合う舞台が産まれることになった[75]。こうした全国ないしはブロック単位の交流競走は、この後も順調に増加の道を辿っていく。中央競馬との間でも1973年より中央側で地方競馬招待競走が、大井競馬場で中央競馬招待競走が隔年で交互に施行されていたが、1986年からは帝王賞が距離を2000mに短縮された上で、中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となった。ジャパンカップにも地方競馬所属馬の招待枠が設けられていた時期があり、1985年には船橋所属のロツキータイガーが2着と健闘している[75]。
オグリキャップの登場と「交流元年」
1987年、笠松競馬場でのちに第二次競馬ブームを牽引するオグリキャップがデビューを迎える。これ以前から続いていたバブル景気による経済状態の好転もあって、地方競馬の開催成績もようやく上向きをみせた[76]。なかでも急速に売上を伸ばした中央競馬や南関東公営競馬に引きずられる形で[注 28]、重賞競走の本賞金を中心に、全国各地で賞典費が増額されていく。1989年には生産者らの団体が主体となって、ホッカイドウ競馬にてブリーダーズゴールドカップが設立されている[77]。また騎手招待競走のような企画・交流競走も華々しく行われ、1988年には兵庫県競馬組合が通算2000勝以上の名手たちが高額賞金を賭けて戦うゴールデンジョッキーカップを創設[注 29][78]。1989年から1993年にかけては、国外からも招待騎手を招いたインターナショナルクイーンジョッキーシリーズが開催されている[注 30][79]。各主催者だけでなく、地方競馬全国協会も1990年からは地方競馬全体の表彰としてNARグランプリを開催し、従来の機関誌『地方競馬』が『Furlong』へと衣替えするなど、時代に合わせた広報活動へと転換していく[80][81]。
一方で、オグリキャップやオグリローマン、イナリワンのような傑出馬を輩出しながらも、活躍の場を求めて中央競馬への移籍を許してしまったことは、地方競馬関係者からすればその心境は複雑であった。また、中央競馬の側も国際化な日本競馬の地位向上において、地方競馬との協調を進める必要に迫られたことから[注 31][82]、1995年より中央競馬と地方競馬の間で交流元年と呼称される、相互交流の大幅拡大が実施されることになった。多くの地方競馬場にて中央競馬所属馬が出走可能な指定交流競走と[注 32][83]、日本中央競馬会が賞金を援助し、1着馬に中央競馬で施行される条件戦のうち特別指定競走への出走権利を付与するJRA2歳認定競走が設けられた[84]。また、各地区のステップ代表選定競走を勝利するなどした馬には中央競馬の最高格付け競走たるGⅠ競走に向けた前哨戦への出走権が与えられ[注 33]、さらにはそこで好走することでGⅠ競走本体へも出走する道が開かれた。果たして、この開放元年初年度から笠松所属のライデンリーダーが、桜花賞のトライアル競走である4歳牝馬特別で勝利。本番の桜花賞こそ4着だったものの、中央競馬の3歳牝馬クラシック3戦全てに出走を果たしている[84]。1996年には日本中央競馬会、地方競馬全国協会、全国公営競馬主催者協議会によってダート競走格付け委員会が組織され、翌1997年より中央競馬・地方競馬を横断した重賞競走の格付けであるダートグレード競走制度が導入された[注 34][83]。2001年からは、全国の地方競馬場での持ち回り開催となるJBC競走が創設されている[85]。
そして1999年、中央競馬の東京競馬場で開催されたフェブラリーステークスを岩手所属のメイセイオペラが制し、地方競馬所属馬による中央競馬開催GⅠ初制覇を達成した。同年にはレジェンドハンターがデイリー杯3歳ステークスを逃げ切り、本番の朝日杯3歳ステークスでも2着[86]。2004年にはホッカイドウ競馬で認定厩舎制度を利用したコスモバルクが、中央3歳牡馬クラシック戦線の有力馬の1頭として挑戦し人気を集めた。その後も果敢に芝路線への挑戦を続け、シンガポールのクランジ競馬場で開催された国際GⅠであるシンガポール航空インターナショナルカップを制する快挙を成し遂げている[87]。
中央競馬と地方競馬の交流については、日本の競馬も併せて参照。
相次ぐ危機
しかしながら、バブル崩壊後の経済情勢は、地方競馬の開催成績を直撃した。1991年に9862億円でピークを迎えた地方競馬全体の売上は、10年後の2001年には5605億円まで激減する。巨額の累積赤字を積み上げた各地の主催者は一転して賞典費を始めとする経営コスト削減に回るが、それが馬資源の流出や厩舎関係者の士気低下を招くことで競走自体の魅力が乏しくなり、ますます開催成績が悪化するという悪循環に陥っていった[88]。また、中央・地方併せて2001年には46競走まで拡大したダートグレード競走だが、その賞金水準の高さに比して売上額は芳しくなく、地方競馬にとってのカンフル剤とはならなかった[注 35][89]。高崎競馬場や新潟公営などでは入場者数増加の振興策の一貫として、日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所を場内で併設することが行われた。だがその結果として、目の前で行われている生の競走ではなく、僅かな手数料収入しか得られない中央競馬の中継映像へ多くの顧客が群がるという、悲劇的な光景も見られたという[90][91]。
また、西日本を中心に専業の競馬場も存在するなど、長らく地方競馬の歴史を支えてきたアングロアラブ競馬だが、1995年をもって馬房数の問題を抱えていた中央競馬がその廃止を決定する[注 36]。すでに1980年代から在厩数の減少に悩んでいた南関東の競馬場がこれに追随し[92]、交流元年後のサラブレッドによる相互交流の流れもあって、アラブのメッカを誇った兵庫県競馬組合も1999年にサラブレッドの導入を発表[93]。一連の流れを受けて、もとより1970年代から減少傾向が続いていたアングロアラブの生産頭数は雪崩を打つように激減し、もはや将来的な存続は不可能な見通しとなった[注 37][94]。
そして2001年6月、大分県の中津競馬場が、21億円の累積赤字を理由に廃止されることが主催者の中津市より発表される[95]。その後、中津競馬場では廃止に伴う競馬場関係者の補償金を巡って労働争議が紛糾するが、ともかくもこの中津を皮切りとして、全国的に競馬主催者の撤退が相次いでいった[注 38]。翌2002年8月には日本一小さな競馬場として知られた島根県益田市の益田競馬場が廃止となり[96]、2003年から2006年にかけて足利・高崎・宇都宮の北関東公営競馬が壊滅[97]。東北地区では、2002年にすでに前年より三条競馬場での開催から撤退していた新潟県競馬組合が完全に廃止され[90]、翌2003年には作家山口瞳が愛したことで知られた上山競馬場からも競走馬が姿を消した[98]。かつては地方競馬の優等生と謳われた岩手競馬すらも、開催成績の低迷に加えて、1996年に移転した新盛岡競馬場の建設費を巡る巨額の債務によって破綻的な経営状況へと陥り、2007年には一時廃止が確実視された[注 39][99]。1989年より北海道市営競馬組合として主催されてきたばんえい競馬についても、2006年に帯広市を除く構成地方公共団体が撤退し、単独の開催へ縮小することで辛くも存続している[100]。
また、地方競馬から中央競馬の競走への遠征馬に騎乗する騎手は当日の他の競走にも騎乗できたことから、地方競馬の名手たちが中央競馬においてもその腕前を披露する機会を得ることになった[101]。そして地方競馬の未来がかくも不安定な状況にあっては、一般的な注目度・金銭的な待遇ともに恵まれた中央競馬への移籍を望む騎手が現れることも自然な流れである。2001年、長らく笠松競馬場のリーディングジョッキーとして知られた安藤勝己が、中央競馬の騎手免許試験を受験することを発表した。この年こそ一次試験で不合格となったが、すでにその実力が中央競馬のファンにも知れ渡っていた安藤勝己が免許を取得できなかったことは各方面からの非難を産んだ。そして翌2002年より通称アンカツルールと呼ばれた「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」の一次試験を免除する規定が設けられたこともあって、見事に合格。地方競馬全国協会は騎手免許の中央・地方重複所有を監督官庁である農林水産省へ要請したが認められず、2003年3月より安藤勝己は中央競馬所属騎手として再出発を果たした[101]。以後も各地区のリーディング級騎手による中央競馬騎手免許試験の受験が相次ぎ、また地方競馬内でも比較的余裕のある競馬場への移籍を望む事例がみられるようになった[注 40]。
生き残りに向けて
2004年、疲弊する地方競馬を中心とした日本競馬の構造改革を目指して競馬法が改正され、勝馬投票券発売業務を始めとする競馬の実施にあたる業務の大半を民間業者へ委託可能となった[102]。そして早速、2004年限りでの廃止が決定していた高崎競馬場について、当時新進気鋭のIT系若手経営者として知られ、熱心な競馬ファンとしても知られたライブドア社長堀江貴文が、インターネットを通じた馬券発売を中心とした再建策を持ち上げる[103]。この再建計画それ自体は競馬主催者である群馬県によってその見通しの甘さを指摘され採用には至らなかったが[注 41]、これ以後地方競馬に対するIT企業各社の進出が進んでいった。2005年には、ソフトバンクの子会社であるソフトバンク・プレイヤーズが、日本レーシングサービスが所有していた南関東を除く地方競馬の統合電話投票システムであるD-netを買収し、翌2006年4月よりオッズパークとしてリニューアル[104]。同社はまた、帯広市主催のばんえい競馬の一部業務業務委託も2011年度まで担っている。一方で南関東公営競馬は東京都競馬がシステムを管理する自前の電話投票システムSPAT4を有していたが、別途2006年3月末に楽天との間でインターネットを通じた勝馬投票券発売業務の提携を発表。他の主催者もこれに追随し、2007年2月より楽天競馬として業務を開始した[104]。
こうした勝馬投票券発売業務の委託は10%以上の高額な手数料による収益性低下の問題を孕んでいたものの、その利便性の高さから総売上に占める電話投票の割合は着実に増加していった[105][104]。なかでも高知県競馬組合はハルウララの登場と関係者の必死の努力によってギリギリで廃止を免れる状況が続いていたが、インターネット投票の顧客を狙って2009年より冬期も含めた通年ナイター開催である夜さ恋(よさこい)ナイターを開始。後述する日本中央競馬会の電話投票システムでの発売もあって、大きく経営を安定化させることに成功している[106]。こうしたナイター開催化の流れは全国的に顕著であり、同じく2009年から門別もナイター化し[107]、2012年からは園田競馬場も限定的ながらナイター開催を行っている[108]。こうした中で地方競馬の開催成績は2000年代半ばから微減で推移してきたが、それでも2011年には荒尾競馬場が[109]、2013年には福山競馬場が廃止となった[110]。
2000年代の後半に入るとインターネット発売や広域場外発売の進展もあって、従来から進められていたダービーWeekを始めとする全国規模のシリーズ競走の企画運営や交流競走路線の整備が、一層の進展を見せてきた。また小泉構造改革に伴う特殊法人改革によって、地方競馬全国協会は2008年より地方共同法人へと移行する。この際にその業務に「競馬活性化事業及び競走馬生産振興事業に対する補助」が加えられ、農林水産大臣の認可を受けた認定競馬活性化計画に基づき、地方競馬全国協会が各主催者や業務受託業者を支援することが可能となった[111]。そして日本中央競馬会からの交付金も用いて整備が進められた地方競馬共同トータリゼータシステムによって[112]、2012年10月からは地方競馬IPATとして中央競馬の電話投票システムを通じた地方競馬の発売を開始[113]。また同じシステムを通じて地方競馬場やその場外勝馬投票券発売所で中央競馬の馬券を発売するJ-PLACEも拡大し[114]、その手数料収入が一部の地方競馬主催者にとっては重要な収益の柱となっている[115]。
中央競馬との違い
競走馬の取り扱い
その登録業務は地方競馬全国協会が執り行う。競走の格付けについてはA級・B級・C級の3階層制を基本とし、主催者によってはローマ数字や漢数字を組み合わせて格を示す[116]。競走馬の格付けにあたっては獲得した本賞金に一定の補正を行った番組賞金によって定められることが多いが、兵庫県競馬組合は独自のポイント制を採用している[117]。多くの場合、一定年数が経過した本賞金は番組賞金算出に当たって減額されるか、馬齢が加算されるごとに基準が引き上げられるために、中央競馬よりも高齢馬が賞金獲得を目指して走り続けやすい制度となっている[注 42]。
競馬関係者の取り扱い
調教師・騎手らを始めとする競馬関係者の免許は、地方競馬全国協会が管轄する。その養成・研修施設として地方競馬教養センターが存在する[118]。ただし、JRA競馬学校の卒業が義務づけられている中央競馬と異なって、厩務員については各主催者・調教師の自由に任せられている。開催執務を担う人材については地方競馬全国協会からも派遣されているほか、各主催者の職員が地方競馬教養センターで研修を受け、専門職員としての業務に就いている[118]。また騎手については、一部を除いて[勝負服 (競馬)|馬主服]]ではなく、各騎手ごとに定められた騎手服を着用して騎乗を行う[119]。
なお、馬主についても地方競馬全国協会が中央競馬とは別途に登録を行っているが、その必要とされる所得額は500万円以上と[120]、中央競馬のそれと比較した場合垣根の低いものとなっている。
能力検定競走
能力検定競走(「能力検査(能検)」「能力試験(能試)」とも呼ばれる)とは初出走時や他の競馬場・厩舎からの移籍時に行われる模擬競走で、地方競馬ではこれを受けなければ競走に出走できない。実際の競走と同様に数頭で800m程度(競馬場により多少異なる)の模擬競走を行い、基準タイム以内で走破(あわせて走法なども考慮される)した競走馬が出走資格を得る。不合格の場合は合格するまで再受検を行う。 ばんえい競馬も現在は平地と同様に基準タイム制を2005年度より採用しているが、かつてはあらかじめ検査日ごとに合格頭数を設定し、模擬競走を完走しても上位に入らなければ合格できなかった(一般的な受験と同じく、ふるいにかけるほど多くの競走馬が受検するため)。
個人協賛競走
経営難に苦しむ上山競馬場によって2001年から始められた制度であり、数万円程度の協賛金と副賞を提供することで、競走の命名権などのサービスを含んだ個人協賛競走を行うことができる。
脚注
- ^ 後述するように甚大な戦災・天災被害を被った地方公共団体も競馬を施行することができるほか、特別区については例外措置として総務大臣の指定市同等として扱われる。
- ^ 地方競馬側はばんえい競馬のものも含める。
- ^ 歴史的には障害コースが存在した競馬場もあるが現存しない。
- ^ 2009年までは札幌競馬場でJRAとホッカイドウ競馬を併催していたが、2010年度以降の札幌競馬場におけるホッカイドウ競馬開催は休止している。
- ^ 1997年までホッカイドウ競馬を併催していた。
- ^ 石川県と金沢市が個別に主催している。
- ^ 豊明市にある中京競馬場はJRAと愛知県競馬組合の併催となっているが、地方競馬の開催は2002年以降休止している。
- ^ 北海道はホッカイドウ競馬、ばんえい競馬を合わせた開催回数である。
- ^ これを居留地競馬と総称する。当該項目も参照。
- ^ 「第一条 競馬ハ民法第三十四条ニヨリ設立シタル競馬会ニアラザレバコレヲ行ウコトヲ得ズ但シ祭典等ニ際シモツパラ娯楽ノタメニスルモノハコノ限リニアラズ」。
- ^ 「畜産組合法ニヨル組合マタハ馬匹ノ改良増殖ヲ目的トスル団体ハ前各条ニヨラズ地方長官(東京ニアリテハ警視総監)ノ許可ヲ得テ競馬ヲ行ウコトヲ得前項ノ競馬ニシテ第五条、第九条、第十四条乃至第十六条ノ規定ヲ準用スルモノニアリテハ地方長官ノ請求ニヨリ必要ト認ムルトキハ馬政長官ハ開催補助金マタハ、賞金、賞品モシクハ賞状ヲ下付マタハ授与スルコトヲ得」。当時は馬券発売が禁止された「補助金競馬」の時代であるため。
- ^ 入場券に付属する投票券の投票をもって馬券に替え、的中者に景品を贈呈するシステム。1競走につき1枚が原則とされ、客は2レース以上購入する場合いったん退場し再度入場券を購入し直す建前となっていた。
- ^ これはコースを1週1000m以上の円周形に限るなど、施設面で相応の高い水準を要求する物であった。そのため従来の祭典競馬の中には、「地方競馬」の範疇外でその後も継続して行われたものも多い(「地方競馬規則第30条」には、祭典のための競馬はこれを適用しないとの規定がある)。山陰地方においては、1960年代までその事例が確認されている。また、ばんえい競馬は未だ地方競馬の範疇には含まれることなく、草競馬の形態を余儀なくされた。なお、宮城県における花競馬も参照。
- ^ ただしその根拠が法律でなく省令に留まったことから、馬券発売が不可能であるなどの不満は残った。そのため一部の有力地方競馬場の関係者はしばしば「地方競馬法」の制定を求める陳情を行うこととなる。
- ^ 後述する地方競馬法が議案を通過してから実際の施行までの2ヶ月余りの間に、こうした闇競馬はさらに急増した。
- ^ 当初は北海道内3カ所、他の都府県で1カ所のみに制限されていたが、1947年の改正で倍増された。
- ^ これに付随し、従来の駆歩、速歩、障害に加えてばんえい競走が法的にその地位を認められた。
- ^ 日本馬事会らが戦前の軍馬養成のための国策機関であったことも影響したとされる。
- ^ 実際の競技は、翌1952年4月の大村競艇場での開催が初。
- ^ 奈良競馬場のように、競輪場へ施設が転用された事例も存在する。
- ^ 競馬関係者とその家族にとってこうした根無し草のような生活は負担が重く、のちの門別軽種馬トレーニングセンター開設へと繋がる。
- ^ 草輓馬時代の円形コースから、直線コースへの転換が代表。とはいえ、創成期のころのばんえいは専業者は馬・騎手共に1割ほどで、残りは農業・運搬従事者の副業や家畜商が主だった。完全なプロ化を達成するのは1970年代まで待たねばならない。
- ^ 戦後はスタンダードブレッドが用いられた。
- ^ この中には、1954年の神戸盃で3着するなど11勝を挙げたサアハリースター(旧名:ブゼンカツコマ)、1954年の阪神大賞典で2着などし、南関東へ転じて大井記念を制したブゼントシユキ(中央・繁殖名:ダブルマーク)が出た。
- ^ そのほか、競馬場の所在地でない市町村の戦災指定市が有していた開催権の廃止が答申され、数度の延長を経ながら1967年をもって廃止されている。
- ^ この問題については、大井などは比較的平穏に関係が済んだ一方、具体的な利権として警備などを請け負わせる慣行が続いた競馬場もあるなど地域差が激しい。
- ^ ただし現場における実効性は薄く、数年で廃止となっている。
- ^ サラブレッドの生産頭数自体も増えてはいたが、それでも馬資源の確保が問題となった。
- ^ これ以前には、1986年から高知競馬場にて全日本新人王争覇戦が、中央競馬にて1897年よりワールドスーパージョッキーズシリーズが行われている。
- ^ 益田の吉岡牧子騎手が89〜91年と3年連続で総合優勝を果たしている。
- ^ その一例として、JRA単体で競走数全体に占める重賞競走の割合の高さが問題となったことが挙げられる。
- ^ 交流競走補助金として、日本中央競馬会より本賞金総額の50%が交付される。
- ^ 一部の地区は、選定競走を経ずに直接出走が可能だった。
- ^ 日本の国際セリ名簿基準委員会パートⅠ国入りに伴い、2008年より格付け業務は日本グレード格付け管理員会へと移管されている。
- ^ ただし、商圏と宣伝に限界がある地方競馬においては、歴史的に重賞競走は「持ち出し」となる売上しか確保できないことは一般的であった。
- ^ 中央競馬のアングロアラブは中央競馬会より馬主会に抽選馬という形で配布されていたが、賞金の低いアングロアラブに上限が定められた馬房を喰われることへの不満が存在した。
- ^ 最終的に、2009年9月27日に福山競馬場で施行された「開設60周年 アラブ特別レジェンド賞」をもって、日本国内におけるアングロアラブ系単独競走は姿を消している。
- ^ 競馬場それ自体としては、これ以前にもホッカイドウ競馬の函館競馬場・岩見沢競馬場からの撤退が行われていた。
- ^ 最終的に県議会で330億円の融資を行うことが可決され、存続となった。
- ^ その一例として、それぞれ笠松競馬場、高知競馬場から兵庫県競馬組合へ移籍した川原正一騎手、北野真弘騎手が挙げられる。また、他地区での期間限定騎乗や重賞競走へのスポット競走への騎乗も整備が進められた。
- ^ 高崎競馬場を巡っては、その後境共同トレーニングセンターとインターネットによる馬券発売を活用した再建運動が一部のファン・競馬関係者らの間で産まれている。詳細は新高崎競馬応援団を参照。
- ^ 一方で、南関東公営競馬のように定年制を採用する事例もある。
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