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相原町

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日本 > 関東地方 > 東京都 > 町田市 > 相原町

相原町(あいはらまち)は、東京都町田市北西部の地名。人口は15,187人(住民基本台帳 2009年12月末現在[1]

地理

町田市北西部に位置し、境川の北側で、東西に細長い。西および北は多摩丘陵の分水界である主稜線を境界に八王子市に隣接し、南は都県境である境川をはさんで相模原市に隣接する。東は同じ町田市内の小山町および小山ヶ丘六丁目に接する。

概要

北側は丘陵地とそれを刻む谷戸が分布し、南の境川に沿って平坦地が細長く伸びる。この平坦地を町田街道が東西に貫通し、これに沿って集落が街村状に広がっている。東部をJR横浜線が横断し相原駅が設けられている。駅前商店街はあまり発展していないが、駅周辺は旧堺村の行政中心であり、町田市堺市民センターや市立堺中学校などがある。

北側の丘陵地の多くは森林におおわれているが、相原駅に近い東部ではところどころに宅地造成された住宅団地が分布するほか、1970年代以降、法政大学東京家政学院大学などが都心から移転してキャンパスを設けている。

法政大学多摩校地遺跡群など多数の遺跡などが発見され平安時代としては国内最大級となる200基以上の須恵器などが焼かれた窯跡が発見されている。

難読地名として、「作ヶ畬(さくがあらく)」という小字がある(1051番地付近)。[2]

由来

古くは粟飯原とも表記し、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡を中心に割拠した武士団横山党」のうちの粟飯原氏名字の地とされる。

歴史

1594年(文禄3年)の検地で境川が武蔵・相模両国の境界とされたことにより、北側が武蔵国多摩郡、南側が相模国高座郡に属することとなった。

沿革

  • 江戸時代初めには「相原村」と称したが、1690年元禄3年)に西から上相原村、中相原村、下相原村に三分された。上相原村は「大戸村」とも称した。当初は3村とも全域が幕府直轄領(天領)であったが、元禄年間以降の地方直しを通じて旗本知行地となった。

河川

  • 境川
    • 本川・大地沢(境川の支流)

交通

横浜線相原駅

道路・橋梁

施設

行政
  • 堺市民センター
  • 町田市立堺図書館
  • 大地沢青少年センター(町田市内唯一の公共宿泊施設)
教育
郵便局
  • 相原郵便局
  • 大戸郵便局
病院
  • 上相原病院
商業
神社寺院
  • 蔵王社
  • 若宮八幡神社
  • 熊野神社
  • 江柄八幡神社
  • 八雲神社
  • 子ノ神社
  • 大六天社
  • 御嶽神社
  • 神明神社
  • 長福寺
  • 諏訪神社
  • 浅間神社
  • 清水寺
  • 山王社
公園
  • 橋本公園
  • 相原中央スポーツ公園
  • てんで山児童公園
史跡など

出典

  1. ^ 町田市の世帯と人口 2009年|町田市
  2. ^ 「あらく」の字は正確には「入」の下に「番」と書く。参照:「さくがあらく」という地名について。