藤原興邦
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 弘仁12年(821年) |
死没 | 貞観5年1月5日(863年1月27日) |
官位 | 従四位下、内蔵権頭 |
主君 | 文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 | 父:藤原常嗣、母:藤原緒嗣の娘 |
兄弟 | 興邦、文弘、葛覧 |
妻 | 不詳 |
子 | 高基 |
藤原 興邦(ふじわら の おきくに)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家、参議・藤原常嗣の子。官位は従四位下・内蔵権頭。
経歴
[編集]承和年間に長く内舎人を務め、のち右衛門少・大尉を歴任すると共に、近江大掾・備前掾を兼任した。
文徳朝の斉衡2年(855年)従五位下に叙爵し、同年筑前介次いで筑前権守を遥任で兼ねる。のち、左兵衛佐・右衛門佐を経て、天安2年(858年)春宮大進次いで春宮亮を兼ねて春宮・惟仁親王に仕え、同年11月の惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い、正五位下に昇叙された。またこの頃より内蔵権頭も務めている。
貞観4年(862年)従四位下に叙せられるが、翌貞観5年(863年)1月5日卒去。享年43。最終官位は従四位下行内蔵権頭。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 承和年間:内舎人
- 時期不詳:正六位上。右衛門少尉。右衛門大尉。兼近江大掾。兼備前掾
- 斉衡2年(855年) 正月7日:従五位下。正月15日:筑前介。3月27日:筑前権守(遥任)
- 斉衡3年(856年) 2月8日:図書頭。日付不詳:左兵衛佐
- 天安元年(857年) 9月27日:右衛門佐
- 時期不詳:内蔵権頭
- 天安2年(858年) 正月16日:兼筑前守、内蔵権頭右衛門佐如元。閏2月20日:春宮大進(皇太子・惟仁親王)、右衛門佐筑前守如故。3月13日:春宮亮、右衛門佐如故。8月:解官(母服喪)。9月14日:内蔵権頭、左衛門佐。11月7日:正五位下
- 貞観4年(862年) 正月7日:従四位下
- 貞観5年(863年) 正月5日:卒去(従四位下行内蔵権頭)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
系図上、甥(弟・文弘の子)にあたる、澄影・影覧(いずれも母は藤原春津の娘)を興邦の子とする説もある[1]。