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源興基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源興基
時代 平安時代前期
生誕 承和12年(845年
死没 寛平3年9月10日891年10月16日
改名 興基王→源興基
官位 正四位下参議
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 仁明源氏
父母 父:人康親王、母:不詳
兄弟 興基興範興扶藤原基経室、平惟範
不詳
忠相、敏相、宜子
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源 興基(みなもと の おきもと)は、平安時代前期の皇族公卿仁明天皇の孫で、弾正尹人康親王の長男。官位正四位下参議。もと興基王と名乗るが、臣籍降下して仁明源氏となる。

経歴

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貞観8年(866年)二世王の蔭位により従四位下に直叙され、翌貞観9年(867年侍従に任ぜられる。貞観12年(870年信濃権守、貞観13年(871年播磨権守清和朝後半にかけては地方官を務め、この間の貞観16年(874年)には従四位上に昇叙されている。

貞観18年(876年弾正大弼に転じると、翌貞観19年(877年左馬頭陽成朝では京官を務める。元慶4年(880年)2月には源朝臣姓を与えられて臣籍降下しているが、この時は子女の取り扱いに疎漏があり、同年6月に改めて子女3名が臣籍降下している。元慶5年12月(882年1月)左近衛権中将に任ぜられ、元慶6年(882年蔵人頭を兼ねるなど、陽成朝後半は要職を歴任した。

元慶8年(884年)2月の陽成天皇退位に伴ない蔵人頭を去り、同年11月に正四位下に昇叙。宇多朝寛平3年(891年参議宮内卿に任ぜられて公卿に列すが、同年9月10日薨去享年47[1]。最終官位は参議宮内卿正四位下。

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』による。『一代要紀』は享年44、『日本紀略』は享年38だが、直叙の年齢が若すぎるため誤り
  2. ^ a b c d e f g 『公卿補任』
  3. ^ 『蔵人補任』
  4. ^ a b 『近衛府補任』
  5. ^ 『日本紀略』による。『公卿補任』では11日
  6. ^ 『日本三代実録』元慶4年2月8日条
  7. ^ a b c 『日本三代実録』元慶4年6月21日条

出典

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