源興
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 天長5年(828年) |
死没 | 貞観14年11月19日(872年12月22日) |
官位 | 従四位上、右近衛中将 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 | 父:源常、母:不詳 |
兄弟 |
興、頴、直、相、備 養兄弟:啓 |
妻 | 不詳 |
子 | 教 |
源 興(みなもと の おこる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨源氏、左大臣・源常の子。官位は従四位上・右近衛中将。
経歴
[編集]仁明朝の承和12年(845年)无位から従五位下に直叙され、翌承和13年(846年)侍従に任じられる。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後まもなく左兵衛権佐に任ぜられると、仁寿3年(853年)右兵衛権佐、斉衡3年(856年)左近衛権少将、天安元年(857年)右近衛中将と、文徳朝では武官を歴任するとともに、仁寿元年(851年)従五位上、斉衡2年(855年)正五位下、天安2年(858年)従四位下と順調に昇進した。
清和朝でも引き続き右近衛中将を務める一方、貞観5年(863年)従四位上、貞観8年(866年)蔵人頭に叙任されるなど官途は順調であった。貞観10年(868年)に病により蔵人頭を解任されたが、右近衛中将にはとどまり、結局文徳朝から清和朝にかけて約15年の長きに亘ってこれを務めた。
貞観14年(872年)11月19日卒去。享年45。最終官位は従四位上行右近衛中将兼阿波守。
人物
[編集]容姿が美しく、立ち居振る舞いに優れていた。外見は雄々しく立派である一方で、内面は心が広く穏やかな性格であった。まだほとんど学問を修めていないような幼い頃、既に百氏を諳んじていたという[1]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 承和12年(845年) 正月7日:従五位下(直叙)
- 承和13年(846年) 正月13日:侍従
- 嘉祥3年(850年) 4月2日:左兵衛権佐
- 仁寿元年(851年) 11月26日:従五位上
- 仁寿3年(853年) 日付不詳:右兵衛権佐
- 仁寿4年(854年) 6月:解職(父服喪)。9月:本官起之
- 斉衡2年(855年) 正月7日:正五位下
- 斉衡3年(856年) 8月28日?:左近衛権少将[2]
- 斉衡4年(857年) 正月14日:兼相模守。4月19日:右近衛中将
- 天安2年(858年) 正月7日:従四位下
- 天安3年(859年) 正月13日:兼筑前守。6月:去筑前守(母服喪)
- 貞観2年(860年) 正月16日:兼筑前守(本官起之)
- 貞観3年(861年) 正月13日:兼美作守
- 貞観4年(862年) 正月13日?:止美作守[2]
- 貞観5年(863年) 正月7日:従四位上
- 貞観6年(864年) 正月16日:兼伊勢守
- 貞観8年(866年) 11月:蔵人頭[3]
- 貞観10年(868年) 正月16日?:止伊勢守[2]。10月:解蔵人頭[4]
- 貞観11年(869年) 正月13日:兼阿波守
- 貞観14年(872年) 11月19日:卒去(従四位上行右近衛中将兼阿波守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:源常
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:源教