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高緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
後主 高緯
北斉
第5代皇帝
王朝 北斉
在位期間 天統元年4月24日 - 承光元年1月1日
565年6月8日 - 577年2月4日
姓・諱 高緯
仁綱
生年 天保7年5月5日
556年5月29日
没年 建徳6年10月3日
577年11月30日
武成帝
胡皇后
后妃 斛律皇后
胡皇后
穆皇后
年号 天統 : 565年 - 569年
武平 : 570年 - 576年
隆化 : 576年

高 緯(こう い)は、北朝北斉の第5代皇帝武成帝高湛の嫡出長男で[1]、母は胡皇后。後に後主(こうしゅ)と称された。

生涯

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河清4年(565年)、父帝から皇位を譲られて即位する。天統4年(568年)には武成帝の死によって親政を開始する。文林館を創設する[2]ものの暗愚であり、和士開高阿那肱穆提婆といった奸臣たちを信任して国力を衰退させた。重臣・王族たちが彼らの讒言によって殺され、特に斛律光を粛清して、蘭陵王高長恭を自殺に追い込んでからは軍事力が衰退し、それまで軍事的に圧倒的な有利さを保持していたにさえ国土を侵食される羽目になる。

その有様を見た北周武帝宇文邕は出兵を決意する。武平6年(575年)に北周軍の侵攻が始まると瞬く間に国土は侵食され、副都であった晋陽も陥落寸前となり、晋陽の防衛を安徳王高延宗に任せて逃亡した。やむなく、高延宗は配下の軍から推戴されて皇帝(安徳王)となり、晋陽の防衛に奮闘するが力及ばず敗北し、北周に捕縛される。一方、高緯は承光元年(577年)長男の高恒(幼主)に皇帝位を移譲して、なおも国内を逃げ回るものの、結局は部下に裏切られて孤立する。同年3月、高緯は青州で高恒ともども北周軍に囚われ、ここに北斉は滅亡した。

その後、北周から温公に封ぜられるものの、建徳6年(577年)に元側近の穆提婆と共謀して反乱を企てたとして殺害された。享年22。

逸話

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  • 自ら琵琶を弾いて「無愁の曲」を作った。近侍が一斉に和したので民間からは「無愁天子」と呼ばれた[3]
  • 異母兄弟の高綽に「任地にいた時、何が楽しかった?」と聞くと「をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言ったので、同じようなことをさせると、高綽を叱りつけた。「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」と[3]
  • 陥とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが、馮淑妃と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。馮淑妃の化粧に時間を取られたので、結局は落とすことができなかった[3]
  • 陳に侵略された時はさすがに顔色は失ったものの、臣下に「まだ淮河以南を失われたにすぎません。黄河以南を失われたとしても我が国には亀茲くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれて、そのまま納得してしまった[3]

宗室

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后妃

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  • 正室:斛律皇后(廃位)、胡皇后(廃位)、皇后穆黄花、左皇后(淑妃)馮小憐
  • 側室:左娥英李氏(李祖娥の弟の李祖欽の娘)、右娥英裴氏、昭儀曹氏、曹氏、昭儀董氏(董賢義の娘)、夫人毛氏(毛思安の妹)、夫人彭氏、夫人王氏、夫人王氏(小王夫人)、夫人李氏(隷戸女)、夫人李氏(李孝貞の娘)

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  • 幼主 高恒
  • 東平王 高恪
  • 高善徳
  • 高買徳
  • 高質銭

系譜

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新唐書』巻七十一、宰相世系表一下、高氏条によれば、高氏は太公望の6世孫で、の王である文公が始まりとされる。文公からは、文公-高-□-傒-荘子虎-傾子-宣子固-厚-子麗-止-(9世不明)-量-(9世不明)-洪-(3世不明)-高襃-□-承-延-納-達-----樹生(文穆帝)-歓(神武帝)-湛(武成帝)-緯(後主)と続く[注釈 1][4]

末裔

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新撰姓氏録』諸蕃摂津国条には「温義 北斉国温公高緯之後」とあり、摂津国温義氏が後主の末裔を称していたとされる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 新唐書』巻七十一、宰相世系表一下、高氏「高氏出自姜姓,齊太公六世孫文公赤,生公子高,孫傒,為齊上卿,與管仲合諸侯有功,桓公命傒以王父字為氏,食采於盧,謚曰敬仲,世為上卿。敬仲生莊子虎,虎生傾子,傾子生宣子固,固生厚,厚生子麗,子麗生止,奔燕。十世孫量,為宋司城,後入楚。十世孫洪,後漢渤海太守,因居渤海蓨縣。洪四世孫襃,字宣仁,太子太傅。襃孫承,字文休,國子祭酒、東莞太守。生延,字慶壽,漢中太守。延生納,字孝才,魏尚書郎、東莞太守。納生達,字式遠,吏部郎中、江夏太守。四子:約、乂、隱、漢。隱,晉玄菟太守。生慶,北燕太子詹事、司空。三子:展、敬、泰。展,後魏黃門侍郎,三都大官。二子:讜、頤。讜,冀青二州中正、滄水康公。二子:祚、祐。祐字子集,光祿大夫、建康靈侯。二子:和璧、振。」

出典

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  1. ^ 異母兄弟の高綽と同日に生まれたが、高綽は生母が側室だったため次男の扱いとなった。
  2. ^ 尾崎康「北斉の文林館と修文殿御覧」『史学』第40巻第2/3号、三田史学会、1967年11月、61(223)-88(250)、CRID 1050001338945569920ISSN 0386-93342023年9月7日閲覧 
  3. ^ a b c d 通鑑記事本末』(渡辺省のホームページより)
  4. ^ 尾崎康「北魏における渤海高氏」『斯道文庫論集』第2巻、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、1963年3月、243-289頁、CRID 1050845763876903040ISSN 0559-7927NAID 110000985616 

関連項目

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