大河内信久
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正保4年(1647年) |
死没 | 元禄9年8月17日(1696年9月13日) |
改名 | 孫太郎→又兵衛 |
戒名 | 法雲院殿節岩道徹居士 |
墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
氏族 | 大河内家 |
父母 | 父:大河内重綱 母:関氏盛の娘 |
兄弟 | 信久、関久盛、松平信義、秋之助、政真、女 |
妻 | 黒田用綱の娘 |
子 | 信相、関永張、女、栄光院(松平信連室)、女(丹羽長道室)、女(須田資生室)、女 |
大河内 信久(おおこうち のぶひさ)は、江戸時代中期の旗本。大河内宗家15代。石高は715石。
生涯
[編集]正保4年(1647年)に大河内重綱の長男として生まれる。寛文7年(1667年)11月21日、書院番となる。寛文11年(1671年)5月に父が死去し、7月8日に家督を相続する。貞享元年(1684年)1月28日、幕府領となっていた越後高田に赴任し目付代を務める。元禄8年(1695年)8月28日に小十人番頭となり、12月18日に布衣の着用を許される。元禄9年(1696年)8月17日に死去した。享年50。