フランソワ1世 (サン=ポル伯)
フランソワ1世・ド・ブルボン François Ier de Bourbon | |
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サン=ポル伯 | |
在位 | 1495年 - 1545年 |
称号 | エストゥトヴィル公 |
出生 |
1491年10月6日 フランス王国、ソンム、アム城 |
死去 |
1545年9月1日(53歳没) フランス王国、ランス |
配偶者 | エストゥトヴィル女公アドリエンヌ |
子女 |
フランソワ2世 マリー |
家名 | ブルボン=ヴァンドーム家 |
父親 | ヴァンドーム伯フランソワ |
母親 | サン=ポル女伯マリー・ド・リュクサンブール |
フランソワ1世(フランス語:François Ier (II) de Bourbon-Saint-Pol, 1491年10月6日 - 1545年9月1日)は、サン=ポル伯、エストゥトヴィル公。
生涯
[編集]ヴァンドーム伯フランソワとサン=ポル女伯マリー・ド・リュクサンブールの間に生まれた。1515年のマリニャーノの戦いにおいて、フランス王フランソワ1世とともに、バヤール卿(Pierre Terrail de Bayard)により騎士に叙任された。
フランス軍総司令官(Capitaine général)として、1521年にメジエールの戦いに参加し、1524年にはボニヴェ卿(Guillaume Gouffier de Bonnivet)およびバヤール卿とともにセージア川の戦いに参加した。1525年のパヴィアの戦いでは捕虜となった。
1527年、フランソワはドーフィネ知事となった。サヴォイアおよびピエモンテ遠征においても主導的な立場に立ち、1529年の貴婦人の和約まで軍を指揮した。1533年にマルセイユで行われたフランス王フランソワ1世とローマ教皇クレメンス7世との会見にも立ち会った。また、2世紀の間絶えていたグルノーブル大学を、1542年9月1日に式典を行い再開させた[1]。
第四次イタリア戦争において、フランソワはサヴォイア侵攻を指揮した。1543年には、ピカルディーでイングランドおよびスペインと戦った。フランソワは1544年のチェレゾーレの戦いに反対したが、ブレーズ・ド・モンリュック(Blaise de Monluc)が王を説得し、戦いは行われた。
子女
[編集]1534年、エストゥトヴィル女公アドリエンヌと結婚し1男1女をもうけた。
- フランソワ2世(1536年 - 1546年) - エストゥトヴィル公、サン=ポル伯、10歳で死去。
- マリー(1539年 - 1601年) - エストゥトヴィル女公、サン=ポル女伯。最初にソワソン伯ジャン(ヴァンドーム公シャルルの子)と結婚。1560年にヌヴェール公フランソワ1世と結婚。1563年にロングヴィル公レオノールと結婚。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Charles Gavard, Galerie historique du palais de Versailles, t. VIII, Imprimerie royale, 1846, p. 288 [1]
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