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ジャンヌ・ド・リュクサンブール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャンヌ・ド・リュクサンブール
Jeanne de Luxembourg
サン=ポル女伯
リニー女伯

称号 サン=ポル女伯リニー女伯1430年8月4日 - 9月18日
死去 1430年9月18日
フランス王国アヴィニョン
父親 サン=ポル伯・リニー伯ギー
母親 マオー・ド・シャティヨン
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ジャンヌ・ド・リュクサンブールJeanne de Luxembourg, ? - 1430年9月18日)は、百年戦争期のフランスの貴族女性。サン=ポル女伯およびリニー女伯(1430年)。サン=ポル伯およびリニー伯ギーとその妻マオー・ド・シャティヨンの間の娘[1]。捕虜となったジャンヌ・ダルクイングランド軍への引き渡そうとした甥のボールヴォワール領主ジャンに反対した。

生涯

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フランス王シャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエールに侍女として仕え、王妃の末息子シャルル7世の洗礼の代母も務めた[2]。生涯独身を通し、人々には「リュクサンブール嬢(Demoiselle de Luxembourg)」と呼ばれた。1430年当時は、甥のボールヴォワール領主ジャンが所有する居城のボールヴォワール城フランス語版に同居していた。ブルゴーニュ軍の捕虜となったジャンヌ・ダルクが同年7月11日に居城に身柄を預けられると、甥の妻ジャンヌ・ド・ベテューヌ(Jeanne de Béthune)らと共に彼女の身の回りの世話をした。

8月4日、兄ワレラン3世の孫にあたるブラバント公フィリップ・ド・サン=ポルが子供のないまま死ぬと、相続協定に基づいてジャンヌがフィリップからサン=ポル伯領とリニー伯領を継承した。ジャンヌの相続人は甥のブリエンヌ伯ピエールであったが、彼女はピエールの弟で同居するジャンの方を可愛がっており、兄にサン=ポル伯領を、弟にリニー伯領をそれぞれ分与することを決めた[3]。ジャンヌは捕虜ジャンヌ・ダルクの世話をするうちに彼女に好感を抱くようになり、甥ジャンがジャンヌ・ダルクをイギリス軍に引き渡すことに反対し、身柄を引き渡せばリニー伯領の相続を白紙に戻すとほのめかした[4]

9月初旬、毎年の習慣だった弟ピエール枢機卿の墓参りのためにアヴィニョンに向かい、9月18日に同地で没した[5]。甥ジャンは伯母の死でリニー伯領を獲得すると、まもなくジャンヌ・ダルクをイングランド側に引き渡した。

脚注

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  1. ^ Darryl Lundy (13 April 2004). “Jeanne, Cts de Ligny et de St.Pol”. thePeerage.com. 2013年1月14日閲覧。
  2. ^ R・ペルヌー、M・V・クラン『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992年、P182
  3. ^ ペルヌー、前掲書、P183
  4. ^ 竹下節子『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』講談社現代新書、1997年、P178
  5. ^ ペルヌー、前掲書、P186
先代
フィリップ
サン=ポル伯
1430年
次代
ピエール
先代
フィリップ
リニー伯
1430年
次代
ジャン