壬生晴富
壬生 晴富(みぶ はれとみ、応永29年〈1422年〉 - 明応6年〈1497年〉)は、室町時代後期の官人。左大史・壬生晨照の子。官位は正四位上・治部卿。法名は道秀、多宝院と号した。
経歴
[編集]応永33年(1426年)元服し、従五位下に叙爵する。その後、世職である民部少輔・主殿頭・造東大寺次官を歴任。康正元年(1455年)従四位下、寛正6年(1460年)正四位下と昇進し、応仁2年(1468年)左大史に任ぜられ、父・壬生晨照のあとを受けて官務・小槻氏長者となった。
応仁の乱では西軍側につく一方で、文明4年(1472年)東軍側に与していた嗣子・壬生雅久に官務職を譲り、官務に精通していた晴富は雅久を助けて家職を守った[1]。文明14年(1482年)正四位上に至り、延徳2年(1490年)小槻氏で初めて八省卿となった大宮長興に次いで、壬生家として初めて治部卿に任ぜられた。同年出家し、法名は道秀。
父・晨照に続いて、同族の大宮長興とは官務・氏長者職を争ったほか、氏長者領である近江国雄琴・苗鹿両荘に関する相論を行い家領の確保に努めるなど、大宮家に対抗して壬生家の地位の維持に腐心した。また、応仁の乱で官文庫を喪失した大宮長興に対して、晴富は家訓を作成して文書の保存管理を図るとともに[2]、室町幕府の援助を取り付けたほか、延徳2年(1490年)には宗祇から1000疋の寄附を受けるなどして[3]、官文庫の維持に成功し相伝の文書を守っている。明応6年(1497年)卒去。享年76。
著作として『続神皇正統記』『建武三年以来記』があったほか、日記『晴富宿禰記』が伝わっている[1]。
官歴
[編集]『地下家伝』による。
- 応永33年(1426年) 11月30日:従五位下
- 永享5年(1433年) 3月29日:民部少輔
- 時期不詳:正五位下。主殿頭
- 文安5年(1448年) 正月:造東大寺次官
- 宝徳3年(1451年) 4月19日:正五位上
- 康正元年(1455年) 10月1日:従四位下
- 寛正2年(1461年) 正月5日:従四位上
- 寛正6年(1465年) 12月14日:正四位下
- 応仁2年(1468年) 5月:左大史。日付不詳:奉官務並氏長者事
- 文明4年(1472年) 8月6日:譲官務並氏長者事
- 文明14年(1482年) 12月13日:正四位上
- 時期不詳:辞左大史
- 延徳2年(1490年) 11月4日:治部卿。日付不詳:出家(法名・道秀)[4]
- 明応6年(1497年) 日付不詳:卒去
逸話
[編集]「今度撰歌」(応仁の乱で中絶して幻に終わった22番目の勅撰和歌集撰集の企画(いわゆる覚正動撰)のこと)の資料として文正元年(1466年)に後花園天皇が詠んだ百首和歌は、乱前、和歌所とされた撰者・飛鳥井雅親の邸第に収められてあった。乱の勃発直後に飛鳥井邸が兵火に遭った際、一部が持ち出されて市中に出回り、後に偶然、晴富が後花園院自筆の百首和歌を入手したという(『晴富宿禰記』)[5]。
系譜
[編集]『地下家伝』による。