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長尾景信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長尾 景信
時代 室町時代中期
生誕 応永20年(1413年
死没 文明5年6月23日1473年7月18日
別名 四郎[1]、彦四郎、昌賢
戒名 法性院玉泉宗徳
墓所 群馬県渋川市上白井の空恵寺
官位 右衛門尉左衛門尉
幕府 室町幕府 上野国武蔵国守護代
主君 上杉房顕顕定
氏族 白井長尾氏
父母 父:長尾景仲
兄弟 景信忠景景明太田資清正室
正室:長尾頼景
景春上杉定正正室、豊島泰経室、大石憲儀室、千葉自胤
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長尾 景信(ながお かげのぶ)は、室町時代中期の武将[1]山内上杉家家宰白井長尾氏4代当主。上野国武蔵国守護代。妻は長尾頼景の娘[1]

生涯

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長尾景仲の子として誕生[1]通称は四郎[1]寛正2年(1461年)、右衛門尉[1]

同年、家督を継ぎ、山内上杉家の当主・上杉房顕の執事となった[1]

文正元年(1466年)に房顕が嗣子無くして死去する[1]。そのため越後国上杉房定の子・顕定を山内上杉家に迎え[1]、文正2年(1467年)には関東管領にしている。そして景信自身は守護代として山内上杉家の実権を掌握し、陰の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。

文明3年(1471年)、左衛門尉[1]。同年4月、自ら総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城樺崎城を落としている。同年6月24日、成氏の居城・古河城を陥落させた[2]。しかし文明4年(1472年)に成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総に攻め入り、足利軍と対峙する。

翌文明5年(1473年)6月23日、死去[注 1][3]。享年61。法名は法性院玉泉宗徳[3]

景信の死後、顕定は弟・忠景を山内家の執事職に任じたため、これに不満を抱いた景信の嫡男・景春は足利成氏に通じた(長尾景春の乱[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 12日、21日とする説もある。

出典

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参考文献

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  • 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史』 別編1 人物《神奈川県歴史人名事典》、神奈川県、1983年3月25日。NDLJP:9522836 (要登録)