長尾景信
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時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 応永20年(1413年) |
死没 | 文明5年6月23日(1473年7月18日) |
別名 | 四郎[1]、彦四郎、昌賢 |
戒名 | 法性院玉泉宗徳 |
墓所 | 群馬県渋川市上白井の空恵寺 |
官位 | 右衛門尉、左衛門尉 |
幕府 | 室町幕府 上野国・武蔵国守護代 |
主君 | 上杉房顕、顕定 |
氏族 | 白井長尾氏 |
父母 | 父:長尾景仲 |
兄弟 | 景信、忠景、景明、太田資清正室 |
妻 | 正室:長尾頼景娘 |
子 | 景春、上杉定正正室、豊島泰経室、大石憲儀室、千葉自胤室 |
長尾 景信(ながお かげのぶ)は、室町時代中期の武将[1]。山内上杉家の家宰。白井長尾氏4代当主。上野国・武蔵国守護代。妻は長尾頼景の娘[1]。
生涯
[編集]長尾景仲の子として誕生[1]。通称は四郎[1]。寛正2年(1461年)、右衛門尉[1]。
同年、家督を継ぎ、山内上杉家の当主・上杉房顕の執事となった[1]。
文正元年(1466年)に房顕が嗣子無くして死去する[1]。そのため越後国の上杉房定の子・顕定を山内上杉家に迎え[1]、文正2年(1467年)には関東管領にしている。そして景信自身は守護代として山内上杉家の実権を掌握し、陰の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。
文明3年(1471年)、左衛門尉[1]。同年4月、自ら総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を落としている。同年6月24日、成氏の居城・古河城を陥落させた[2]。しかし文明4年(1472年)に成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総に攻め入り、足利軍と対峙する。
翌文明5年(1473年)6月23日、死去[注 1][3]。享年61。法名は法性院玉泉宗徳[3]。
景信の死後、顕定は弟・忠景を山内家の執事職に任じたため、これに不満を抱いた景信の嫡男・景春は足利成氏に通じた(長尾景春の乱)[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 12日、21日とする説もある。