佐竹義篤 (九代当主)
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時代 | 鎌倉時代末期から南北朝時代 |
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生誕 | 延慶4年/応長元年(1311年) |
死没 | 正平17年1月12日(1362年2月7日)) |
改名 | 春山浄喜 |
別名 | 次郎 |
戒名 | 清音寺院殿春山浄喜大禅定門 |
墓所 | 清音庵 |
官位 | 刑部大輔、右馬権頭、伊予守、左兵衛尉、常陸介、駿河守、遠江守、右馬頭 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 佐竹氏 |
父母 | 父:佐竹貞義、母:海上胤泰の娘 |
兄弟 | 月山周枢、義篤、小瀬義春、義資、義直、義冬、師義 |
妻 | 正室:小田知貞の娘、側室:梅ノ局 |
子 | 佐竹義宣(義香)、小場義躬、石塚宗義、乙王丸、大山義孝、藤井義貫(義實)、女子3人など |
佐竹 義篤(さたけ よしあつ)は、南北朝時代の武将で、常陸国の佐竹氏9代当主。
略歴
[編集]8代当主佐竹貞義の次男で通称は次郎。兄の周枢は庶子のために正宗寺の僧になったので、家督を継いだ。建武の新政が崩壊し、南北朝の争乱が勃発すると足利尊氏に味方し、常陸守護に任じられ、帰国後は常陸国の北朝勢力の中心として活動した。
少なくても、文和3年(1354年)から延文2年(1357年)まで在京し、右馬権頭の官途を与えられ、室町幕府の侍所頭人を務めている[1]。晩年は禅宗に帰依し、入道して春山浄喜と号し、常陸国那珂郡古内郷に清音庵(後の清音寺)を建立。
子孫
[編集]義篤は、弟や子供たちに小場氏(小場氏の養子に)、石塚氏、大山氏(大山氏の祖)、藤井氏(藤井の祖)と名乗らせ、領地をあたえている。なお、4男の乙王丸は若くして死亡し、他にも女子が3人いるが、嫁ぎ先などは不明。
脚注
[編集]- ^ 佐々木倫朗「総論Ⅰ 中世における常陸佐竹氏の動向」佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-375-6 P9.