北条定宗
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 文永5年(1268年) |
死没 | 永仁3年8月19日(1295年9月29日)) |
別名 | 六郎、治部太輔入道 |
戒名 | 道円 |
官位 | 肥前国守護、修理亮、従五位下、大友左近大夫将監 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 久明親王、北条貞時 |
氏族 | 北条氏 |
父母 | 父:桜田時厳、母:不詳 |
兄弟 | 元助、師頼、貞国、篤貞、頼覚、貞源、綱栄、定宗 |
妻 | 不詳 |
特記 事項 | 北条時頼の孫、大叔父の北条時定の養子になった。 |
北条 定宗(ほうじょう さだむね、文永5年(1268年) - 永仁3年8月19日 (旧暦)(1295年9月29日))は、鎌倉時代後期の武将[1][2]。北条氏の一門阿蘇流2代当主。阿蘇定宗とも呼ばれる。肥前国守護、修理亮、大友左近大夫将監。
鎌倉幕府8代執権・北条時宗の異母弟で得宗家傍流である桜田時厳の子[1][2]。諸系図で時厳の子として表すときは「貞宗」と表記されている[1][3]。兄弟に北条元助[4][5][6]、北条師頼、北条貞国、北条篤貞、頼覚、貞源、北条綱栄がいる[5]。
元寇に際して鎮西に下向した大叔父である阿蘇家の祖・北条時定の養子となり、正応2年(1289年)5月以降に阿蘇家の家督を継ぐが[1]、時定の死去から5年後の永仁3年(1295年)8月19日 (旧暦)、現地で死去。享年28[1][2]。
北条時宗像として知られる満願寺所蔵の肖像画は、各史料から実際には定宗の肖像と見られている。
得宗家と桜田流との関係系図
[編集]凡例:数字は得宗家代数、太字は執権経験者。
時頼6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時輔 | 時宗7 | 〔宗政流〕 宗政 | 宗頼 | 〔桜田流〕 時厳 | 宗時 | 政頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞時8 | 元助 | 頼覚 | 師頼 | 兼貞 | 貞国 | 篤貞 | 貞源 | 綱栄 | 定宗 (貞宗とも称す) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高時9 | 時光 | 十郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c d e 北条氏系譜 2001, p. 181.
- ^ a b c 鎌倉北条氏 2019, p. 268.
- ^ a b 得宗専制論 2000, p. 366.
- ^ 『北条氏系譜人名辞典』には元助の記載があるが、『鎌倉北条氏人名辞典』には元助の記載がない。
- ^ a b 北条氏系譜 2001, p. 90.
- ^ 鎌倉北条氏 2019, p. 137.
参考文献
[編集]- 村井章介 『北条時宗と蒙古襲来』 NHK出版、2000年。
- 北条氏研究会 著、北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』(第1版)新人物往来社、2001年6月15日。ISBN 4-404-02908-X。
- 北条氏研究会 著、菊池紳一 編『鎌倉北条氏人名辞典』(第1版)勉強出版、2019年10月25日。ISBN 978-4-585-22255-2。
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(第1版)吉川弘文館、2000年1月10日。ISBN 4-642-02786-6。
関連項目
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