滋野井実冬
時代 | 鎌倉時代初期 - 後期 |
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生誕 | 寛元元年(1243年) |
死没 | 乾元2年5月27日(1303年7月12日) |
改名 | 実冬→阿覚(法名)→実覚(法名) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 |
氏族 | 滋野井家 |
父母 | 父:滋野井公光、母:一条実有の娘 |
兄弟 | 実冬、女子(従三位中納言典侍)、女子(一条実家室) |
妻 | 鴨祐継の娘 |
子 | 冬季、冬家、女子(昭訓門院三条局) |
滋野井 実冬(しげのい さねふゆ、旧字体:滋󠄁野井 實冬󠄀)は、鎌倉時代初期から後期にかけての公卿。滋野井公光の長男。
経歴
[編集]寛元3年(1245年)従五位下に叙爵。宝治元年(1247年)従五位上・侍従に叙任され、建長元年(1249年)左近衛少将に任ぜられた。
建長2年(1250年)正五位下に叙せられる。建長3年(1251年)美作介を兼ね、建長4年(1252年)従四位下に昇叙。建長7年(1255年)には従四位上に進み、建長8年(1256年)左近衛中将に転じた。康元2年(1257年)近江介を経て、正嘉2年(1258年)正四位下に叙せられる。文永8年(1274年)右近衛中将に遷り、蔵人頭に補任。文永10年12月(1274年1月)参議に任ぜられて公卿に列した。
文永11年(1274年)従三位・右兵衛督に叙任。但馬権守を兼ねる。建治元年(1275年)左兵衛督に遷り、建治3年(1277年)には正三位・権中納言に叙任された。同時に右衛門督・検非違使別当を兼帯する。弘安元年(1278年)従二位、弘安6年(1283年)には正二位に叙せられた。弘安7年(1284年)右衛門督を辞退する。
弘安9年(1286年)権中納言を辞退し、本座を聴される。弘安10年(1287年)には中納言となり、正応元年(1288年)ついに権大納言に任ぜられた。
同年10月に権大納言を辞職。11月に本座を聴され、翌正応2年(1289年)11月に出家した。出家直前の9月13日、西園寺公子が春日社に行啓した際にはこれに供奉している[1]。乾元2年(1303年)5月27日薨去。享年61。実冬を『本朝書籍目録』の編者とする説がある。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 寛元3年(1245年)正月5日:従五位下に叙す(臨時)。
- 宝治元年(1247年)
- 9月27日:従五位上に叙す(安嘉門院当年御給)。
- 12月12日(1248年1月9日):侍従に任ず。
- 建長元年(1249年)8月6日:左近衛少将に任ず。
- 建長2年(1250年)4月9日:正五位下に叙す(室町院当年御給)。
- 建長3年(1251年)正月22日:美作介を兼ぬ。
- 建長4年(1252年)正月5日:従四位下に叙す。
- 建長7年(1255年)
- 正月5日:従四位上に叙す(室町院当年御給)。
- 11月10日:喪に服す(父)。
- 建長8年(1256年)
- 2月26日:復任。
- 12月12日:左近衛中将に転ず。
- 康元2年(1257年)正月22日:近江介を兼ぬ。
- 正嘉2年(1258年)正月5日:正四位下に叙す。
- 文応元年(1260年)11月7日:介を止む。
- 文永8年(1271年)4月7日:右近衛中将に転じ、蔵人頭に補す。
- 文永10年12月8日(1274年1月17日):参議に任ず。中将如元。
- 文永11年(1274年)
- 正月20日:但馬権守を兼ぬ。
- 4月5日:従三位に叙す。
- 9月14日:大嘗会御禊次第司・御後長官に補す。
- 10月3日:右兵衛督に転じ、中将を去る。
- 建治元年(1275年)10月8日:左兵衛督に転ず。
- 建治3年(1277年)
- 正月5日:正三位に叙す(親院当年御給)。
- 正月29日:右衛門督に転じ、検非違使別当に補す。
- 9月13日:権中納言に任ず。
- 弘安元年(1278年)
- 4月17日:従二位に叙す。
- 12月25日(1279年2月7日):別当を辞す。
- 弘安6年(1283年)正月5日:正二位に叙す。
- 弘安7年(1284年)正月16日:右衛門督を辞す。
- 弘安9年(1286年)
- 正月13日:職を辞す。
- 正月17日:本座を聴す。
- 弘安10年(1287年)正月13日:中納言に任ず。
- 正応元年(1288年)
- 7月11日:権大納言に任ず。
- 10月27日:権大納言を辞す。
- 11月8日:本座を聴す。
- 正応2年(1289年)11月21日:出家。