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藤原能実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 能実
時代 平安時代後期
生誕 延久2年(1070年
死没 長承元年9月9日[1]1132年10月19日
官位 正二位大納言
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原師実、母:藤原基貞の娘
兄弟 覚実、仁源、師通家忠覚信経実、静意、澄真、能実忠教、仁澄、尋範行玄、増智、永実、玄覚、忠長
藤原基隆室など
養兄弟:賢子源顕房娘)、
篤子内親王後三条天皇皇女)
出雲守基仲の娘、藤原祐家の娘、光清の娘
基能忠頼、真勝、中納言忠季室、源師頼室、藤原宗能室、源師隆室、藤原忠宗
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藤原 能実(ふじわら の よしざね)は、平安時代後期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原師実の四男。官位正二位大納言

経歴

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永保2年(1082年元服して従五位上に叙される。侍従左近衛権少将に叙任され、翌年正五位下・右近衛権中将に叙任される。4月に左権中将に転じて、応徳2年(1085年従四位下に叙された。

応徳3年12月(1087年1月)従四位上・蔵人頭に叙任される。寛治元年(1087年)には正四位下備中権守叙任され、11月に従三位に昇叙。寛治6年(1092年周防権守に任ぜられる。翌寛治7年(1093年正三位中宮権大夫嘉保3年(1096年)には参議に任ぜられ、永長2年(1097年)さらに左兵衛督丹波権守も兼任。康和元年12月(1100年1月)権中納言に任ぜられる。同年に従二位に叙される。

康和4年(1102年正二位に昇叙。天仁元年(1108年)右兵衛督に転じる。天永元年(1110年恂子内親王長奉送使を務める。永久3年(1115年)中納言、保安3年12月(1123年1月)権大納言次いで大納言に昇る。

皇后宮大夫を務めた後、長承元年(1132年)8月に出家。9月に薨去した。享年63。

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ あるいは10日
  2. ^ 以下、『公卿補任
  3. ^ 以下、『尊卑分脈