源顕仲
表示
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 康平元年(1058年) |
死没 | 保延4年3月29日(1138年5月9日) |
官位 | 従三位、神祇伯 |
主君 |
白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 篤子内親王 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源顕房、母:藤原定成の娘 |
兄弟 | 賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、相覚、顕雅、定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房、雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿 |
妻 | 源俊輔の娘 |
子 | 仲房、忠季、有房、覚豪、俊堯、顕意、顕観、覚仲、仁暁、顕玄、散位重通妾、待賢門院堀河、大夫典侍、上西門院兵衛 |
源 顕仲(みなもと の あきなか)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、右大臣・源顕房の子。官位は従三位・神祇伯。
経歴
[編集]白河朝から白河院政期前半にかけて、周防守を経て、承暦元年(1077年)尾張守、承暦4年(1080年)尾張守重任、応徳2年(1085年)丹波守と受領を歴任。この間、承暦4年(1080年)従五位上、寛治元年(1087年)従四位上、寛治2年(1088年)正四位下と昇進を重ねる。寛治7年(1093年)丹波守の任期を終えると、京官の刑部卿に遷った。
その後、10年近く刑部卿を務め、康和4年(1102年)従三位・左京大夫に叙任され公卿に列す。保安3年(1122年)には神祇伯を兼ねている。天治元年(1124年)子息の忠季を宮内大輔に任じる代わりに左京大夫を辞任。結局、35年以上に亘って公卿の地位にあったが、それ以上の昇叙や参議任官は果たせなかった。
鳥羽院政期の保延4年(1138年)3月29日(または4月3日)薨去。享年81。康平7年(1064年)生ともいわれ、その場合享年75。
人物
[編集]勅撰歌人として『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に25首が採録され[1]、新百人一首に選ばれている。永久4年(1116年)には、百首和歌を詠した。家集があったとされるが散逸。大治3年(1128年)『西宮歌合』を始め『南宮歌合』『住吉社歌合』を主催。また、元永元年(1118年)の『内大臣家歌合』、保安2年(1121年)の『内蔵頭長実家歌合』などに出詠した。
笙を豊原公里に習い[2]、秘曲の太食調の入調の譜まで伝授されていた[3]。また、康和・嘉承年間に開催された御遊で笙を演奏している[4]。
官歴
[編集]註釈の無いものは『公卿補任』による。
- 日付不詳:従五位下。周防守
- 承暦元年(1077年) 10月3日:尾張守、元周防守[5]
- 承暦4年(1080年) 正月10日:従五位上[5]。12月30日:尾張守(重任)[5]
- 応徳元年(1084年) 日付不詳:辞尾張守[6]
- 応徳2年(1085年) 日付不詳:見丹波守[7]
- 寛治元年(1087年) 11月18日:従四位上(媞子内親王御給)[8]
- 寛治2年(1088年) 正月19日:正四位下(斎宮職事)[9]
- 寛治7年(1093年) 日付不詳:得替(丹波守)[10]。2月7日:刑部卿[9]
- 康和4年(1102年) 4月21日:従三位(尊勝寺供養賞、中宮御給)、刑部卿如元。11月14日:左京大夫
- 長治2年(1105年) 正月:兼越前権守
- 保安3年(1122年) 日付不詳:兼神祇伯
- 天治元年(1124年) 12月20日:辞大夫(以男季忠申任宮内大輔)
- 大治3年(1128年) 正月28日:兼加賀権守
- 保延4年(1138年) 3月29日[11]:薨去