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源顕仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 顕仲
時代 平安時代後期
生誕 康平元年(1058年
死没 保延4年3月29日1138年5月9日
官位 従三位神祇伯
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
篤子内親王
氏族 村上源氏
父母 父:源顕房、母:藤原定成の娘
兄弟 賢子雅実顕仲雅俊国信、師子、相覚、顕雅定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿
源俊輔の娘
仲房忠季有房、覚豪、俊堯、顕意、顕観、覚仲、仁暁、顕玄、散位重通妾、待賢門院堀河、大夫典侍、上西門院兵衛
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源 顕仲(みなもと の あきなか)は、平安時代後期の公卿歌人村上源氏右大臣源顕房の子。官位従三位神祇伯

経歴

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白河朝から白河院政期前半にかけて、周防守を経て、承暦元年(1077年尾張守、承暦4年(1080年)尾張守重任、応徳2年(1085年丹波守受領を歴任。この間、承暦4年(1080年)従五位上、寛治元年(1087年従四位上、寛治2年(1088年正四位下と昇進を重ねる。寛治7年(1093年)丹波守の任期を終えると、京官の刑部卿に遷った。

その後、10年近く刑部卿を務め、康和4年(1102年従三位左京大夫に叙任され公卿に列す。保安3年(1122年)には神祇伯を兼ねている。天治元年(1124年)子息の忠季を宮内大輔に任じる代わりに左京大夫を辞任。結局、35年以上に亘って公卿の地位にあったが、それ以上の昇叙や参議任官は果たせなかった。

鳥羽院政期保延4年(1138年)3月29日(または4月3日)薨去享年81。康平7年(1064年)生ともいわれ、その場合享年75。

人物

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勅撰歌人として『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に25首が採録され[1]新百人一首に選ばれている。永久4年(1116年)には、百首和歌を詠した。家集があったとされるが散逸。大治3年(1128年)『西宮歌合』を始め『南宮歌合』『住吉社歌合』を主催。また、元永元年(1118年)の『内大臣家歌合』、保安2年(1121年)の『内蔵頭長実家歌合』などに出詠した。

豊原公里に習い[2]、秘曲の太食調の入調の譜まで伝授されていた[3]。また、康和嘉承年間に開催された御遊で笙を演奏している[4]

官歴

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註釈の無いものは『公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 竹鼻[1984: 178]
  2. ^ 『鳳笙師伝相承』
  3. ^ 『体源抄』
  4. ^ 竹鼻[1984: 179]
  5. ^ a b c 『水左記』
  6. ^ 12月26日藤原顕季任(『公卿補任』)
  7. ^ 『朝野群載』第28天永中主計寮勘文
  8. ^ 『本朝世紀』
  9. ^ a b 『中右記』
  10. ^ 『中右記』寛治7年2月7日条
  11. ^ あるいは4月3日

参考文献

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