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八重垣劇場

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八重垣劇場
Yaegaki Theater
1930年の開館当時の八重垣劇場
八重垣劇場の位置(愛知県内)
八重垣劇場
八重垣劇場
八重垣劇場 (愛知県)
情報
正式名称 八重垣劇場
開館 1930年10月15日
開館公演 『パラマウント・サウンド・ノベルティ』など
閉館 1962年10月
収容人員 492人
用途 映画館
所在地 愛知県名古屋市西区南外堀町6-27(現・中区丸の内二丁目)
位置 北緯35度10分38.7秒 東経136度54分01.3秒 / 北緯35.177417度 東経136.900361度 / 35.177417; 136.900361 (八重垣劇場)座標: 北緯35度10分38.7秒 東経136度54分01.3秒 / 北緯35.177417度 東経136.900361度 / 35.177417; 136.900361 (八重垣劇場)
最寄駅 国鉄(当時)名古屋駅
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八重垣劇場(やえがきげきじょう)は、愛知県名古屋市西区南外堀町6-27(現・中区丸の内二丁目)にあった映画館。定員は492名[1]。1930年(昭和5年)に開館し、1962年(昭和37年)に閉館した。

歴史

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設立

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八重垣劇場の設立に携わった伊藤祐民

設立に携わったのは名古屋財界の名士たちであり、松坂屋を株式会社化して初代社長に就任した伊藤祐民関戸銀行旧愛知銀行東海銀行UFJ銀行三菱東京UFJ銀行三菱UFJ銀行)を設立した名門・関戸家、岡谷鋼機を設立した名門・岡谷家、繊維商社のタキヒヨーを設立した滝家などである[2]。会社形態は株式組織であり、映画経済評論家の石巻良夫を常務取締役に迎えている[1][2]。八重垣劇場の経営者は大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長の下出義雄などだった。

1930年(昭和5年)10月15日[1]、「映画芸術の実験劇場」を標榜して名古屋市西区南外堀町6-27(現在の中区丸の内二丁目)に開館した[2]。建物はスパニッシュ様式の鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)であり[1]木造が多かった当時の映画館としてはとても立派な建物だった。設計は鈴木禎次の弟子であり竹中工務店名古屋支店設計部主任の城戸武男[3]ウェスタン・エレクトリック社の発声装置を付けたトーキー映写機を備えていたが[1][2]、これは日本国内では6番目であるとされる[4]

戦前

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地図
名古屋の中心市街地における八重垣劇場の所在地

1930年10月15日からの開館最初週のプログラムは、「林檎の木陰(パラマウント・サウンド・ニュース)」「パラマウント発声ニュース」「ノアのアコ舟(パラマウント・サウンド・ニュース)」「米国の顔」「漫談松井翠声徳川夢声大辻司郎)」「パラマウント・オン・パレード」だった[5]。当時はまだトーキー映画が珍しい時代であり、開館から5年ほどは作品の説明者がおり、状況説明などを行った[6]。ヨーロッパの名作映画を名古屋ではほぼ独占して上映していた[5]。開館当時の劇場案内によると、平日は14時、日曜・祭日は11時に開演した[7]。階下席・階上席・特別階上席で料金が異なり、また昼間と夜間でも料金が異なっていた[7]

当時の名古屋の映画館は繁華街の大須に集中していたが、八重垣劇場の近くには松坂屋支店・座敷の天ぷら店・喫茶店などがあり、ハイソな雰囲気が漂っていた[7]。若手のサラリーマン、旧制高校旧制専門学校の学生などが八重垣劇場に足を運んだ[7]。戦前の八重垣劇場は「ヨーロッパ映画を上映する高級な映画館」という印象が持たれた[8]。地理的に他の映画館と隔絶されていたこと、名士やインテリを客層としたことから、映画史研究家の伊藤紫英は八重垣劇場を「孤島」に例えている[2]

1934年(昭和9年)8月には機関紙の『シネ・アート』の発行を開始した[2]。1940年(昭和15年)頃からは外国映画の輸入制限が起こり、また日本国内の撮影所への生フィルムの配給も厳しくなった[9]

戦後

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1956年の八重垣劇場

太平洋戦争中の1945年(昭和20年)にはたびたび名古屋大空襲が行われ、名古屋にあった多くの映画館が焼失したが、八重垣劇場は辛うじて焼失は免れており[2]、終戦直前まで営業を続けた[7]。空襲で焼失した映画館には中京劇場、松竹座、帝国劇場、千歳劇場、広小路ニュース劇場、帝国館、世界館、文明館、赤門花月、港館(ここまで中区)、千種館、今池館(ここまで千種区)、大曽根劇場(東区)などがあり、焼失を免れた映画館には八重垣劇場のほかに、名古屋宝塚劇場、名宝会館、納屋橋劇場、朝日会館、大須宝塚劇場(いずれも中区)などがあった[10][11]。1945年8月22日にはもう営業を再開し、上映作品は戦前に製作された旧作ばかりだったものの、ホールは娯楽を求める観客であふれた[4]

1947年(昭和22年)にはアメリカ映画の配給を一手に担っていたセントラル映画社からロードショー館(封切館)の指定を受け、アメリカ映画の名作を上映して戦前にも劣らない活況を呈した[12]テクニカラー作品だった『ステート・フェア』には日本語字幕を入れられなかったことから、全座席にイヤホンを設置して原語版を上映し、イヤホンから日本語の同時通訳を流した[12]

1949年(昭和24年)7月1日には松竹映画劇場がステート座に改称してセントラル社のロードショー館となったため、八重垣劇場はすでに他館でロードショーが済んでいる欧米の作品を上映する二番館となった[12]。1950年(昭和25年)頃からは『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』や『どっこい生きてる』などの日本映画の封切りも行い[12]、やがて日本映画の上映館となった[13]。後に岐阜県岐阜市の日本劇場の支配人を務める八代嘉吉は、1957年(昭和32年)10月に八重垣劇場の営業係に就任しているが、この当時は日雇い労働者が主な客層であり、また経営状態も不安定だったことから、「映画芸術の実験劇場」とされた往年の姿は見る影もなかった[13]。八重垣劇場は1962年(昭和37年)3月に閉館した[13]

閉館後

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閉館から約20年間は建物がそのまま残っていたが、1985年に名古屋銀行集会所に買収されると解体された[13]。現在は跡地に名古屋銀行協会会館が建っている。

主な上映作品

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戦前

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戦後

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上映作品の出典は伊藤(1984)

脚注

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  1. ^ a b c d e 名古屋 八重垣劇場(1930年) 東京国立近代美術館
  2. ^ a b c d e f g 小林 2018, p. 24.
  3. ^ 名古屋工業大学建築科110年の歴史 名古屋工業大学
  4. ^ a b 伊藤 1984, p. 157.
  5. ^ a b 伊藤 1984, p. 154.
  6. ^ 伊藤 1984, p. 155.
  7. ^ a b c d e 伊藤 1984, p. 156.
  8. ^ 伊藤 1984, p. 158.
  9. ^ 伊藤 1984, p. 159.
  10. ^ 柴田 1974.
  11. ^ 小林 2018, p. 72.
  12. ^ a b c d 伊藤 1984, p. 160.
  13. ^ a b c d 小林 2018, p. 25.

参考文献

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  • 伊藤紫英『シネマ よるひる 改稿名古屋映画史 8m/mから70m/mまで』伊藤紫英、1984年。 
  • 小林貞弘『名古屋の映画館の歴史 1908-2015』河合文化教育研究所、2018年。全国書誌番号:23052506 
  • 柴田勝『中京名古屋映画興行の変遷』柴田勝、1974年。全国書誌番号:75051052