片岡我童 (13代目)
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十三代目 | |
我童襲名披露興行での口上 (1955年7月) | |
屋号 | 松嶋屋 |
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定紋 | 七ツ割丸に二引 |
生年月日 | 1910年7月6日 |
没年月日 | 1993年12月31日(83歳没) |
本名 | 片岡一 |
襲名歴 | 1. 片岡一 2. 片岡ひとし 3. 五代目片岡芦燕 4. 十三代目片岡我童 5. 十四代目片岡仁左衛門(追贈) |
父 | 十二代目片岡仁左衛門 |
兄弟 | 二代目市村吉五郎 六代目片岡芦燕 |
十三代目 片岡 我童(かたおか がどう、明治43年(1910年)7月6日 - 平成5年(1993年)12月31日)は歌舞伎役者。本名は片岡 一(かたおか はじめ)。十三代目片岡仁左衛門とともに不振の上方歌舞伎の復興につとめ、また女形としても活躍した。
死後十四代目 片岡仁左衛門(じゅうよだいめ かたおか にざえもん)を追贈された(歴代仁左衛門では唯一の真女形)。
略歴
[編集]- 明治43年(1910年)7月6日、十二代目片岡仁左衛門の長男として大阪に生まれる。
- 大正6年(1917年)11月、本名の片岡一(はじめ)の名で中座で初舞台。
- 大正13年(1924年)片岡ひとしと改名。
- 昭和9年(1934年)6月、歌舞伎座で五代目片岡芦燕を襲名。
- 昭和11年(1936年)4月、松竹を脱退し東宝劇団に加入。
- 昭和14年(1939年)10月、松竹に復帰する。
- 昭和21年(1946年)3月、父、十二代目片岡仁左衛門が下男に殺される(片岡仁左衛門一家殺害事件)。
- 昭和30年(1955年)『神霊矢口渡』のお舟で十三代目片岡我童を襲名する(本来なら五代目になるが、父・十二代目仁左衛門の後継ぎという意味から十三代目を名乗った)。真女形として活躍。
- 昭和33年(1958年)には、はとこにあたる十三代目片岡仁左衛門らとともに「七人の会」を立ち上げて、不振の極みにあった関西歌舞伎の復興に努めた。
- 平成4年(1992年)京都南座顔見世での『河庄』のお庄が最後の舞台となった。
- 平成5年(1993年)12月31日、正月の飾りの花を買っての帰途、路上で花束を抱えたまま急死する。83歳だった。
当たり役
[編集]古風な上方色の濃い芸風で、晩年まで濃艶な容姿は衰えなかった。特に『廓文章』「吉田屋」(くるわぶんしょう・よしだや)の夕霧・おきさや『恋飛脚大和往来』「封印切」(こいびきゃく やまと おうらい・ふういんきり)のおえん、『心中天網島・河庄』のお庄、『仮名手本忠臣蔵・六段目』の一文字屋お才など、色街の女主人役がよく知られている。
家族
[編集]弟に二代目市村吉五郎、六代目片岡芦燕が、甥に十七代目市村家橘がいる。
逸話
[編集]芦燕時代、九代目市川高麗蔵(のちの十一代目市川團十郎)と愛人関係にあった。高麗蔵が市川三升の養子となる1940年(昭和15年)ごろまでその関係は続いたが、別れて以後、我童は来世で一緒になるために茶断ちを生涯続け、白湯と水以外は口にしなかったという。(関容子『海老蔵そして団十郎』、中川右介『団十郎と歌右衛門』)