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片山良庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
片山三盛から転送)
 
片山良庵
時代 江戸時代前期
生誕 慶長6年(1601年
死没 寛文8年9月7日1668年10月12日
改名 幼名:源四郎、諱:三盛、直竒
別名 秋扇、良庵(了庵、了菴、良菴)
戒名 清澄院良庵秋月居士
墓所 本妙寺→泰遠寺
主君 松平忠昌松平昌勝
信濃松代藩士→越前福井藩士→越前松岡藩
父母 父:正盛
先妻:不詳、後妻:高屋某の娘
正貞(栄庵)、森利、娘(相澤主水室)、娘(中山宗休室)
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片山 良庵(かたやま りょうあん)は、江戸時代前期の軍学者、医師。 越前福井藩士、のち越前松岡藩士。諱は三盛。一説には直竒(寄)ともいう[1]秋扇と号した。

生涯

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慶長6年(1601年)、京都に生まれる[2]。幼少より儒学者藤原惺窩の下で学ぶ[3]林羅山(道春)は同門でこのころの友人という[4]

12、3歳にして早くも経史子集[注釈 1]に通じていたと言われる[3]。しかし、100余日にわたる病[注釈 2]により学問を中断[5]。回復した後、同学の者に遅れをとったことを嘆き、これを機に兵法の修学に転じた[5]。兵法では、甲州流軍学に最も通じ、8家から奥義を得るほどで名声が高く、多くの入門者がいたという[3]。甲州流ないし北条流の軍学を修める前には、鵜飼某、宇佐宮より出た春慶という者の軍学や、小笠原流、宇野流の軍学も修めたとされる[6]。また、謙信流(越後流)の軍書を授けられたこともあるという[7]。はじめ姓は赤堀といい、片山を名乗ったのは軍学に達してからだという[8][注釈 3]

元和2年(1616年)、信濃松代藩主・松平忠昌に禄300石をもって軍師として招かれ、その家臣となる[9]。また、医者としても仕えた[10]寛永元年(1624年)、藩主忠昌の転封に伴い、越前福井に移る[11][注釈 4]。忠昌が江戸に入るとこれに従った[12]

江戸にいた寛永15年(1638年)、隅田川河畔にあって[注釈 5]『古戦場夜話』を著わす[13]。江戸においても良庵の下で学ぶ者は多く、知名の士との交流もあったという[11]。特に儒学者の林道春、軍学者の北条氏長との親交が厚かった[11]将軍の侍講であった道春及び旗本であった氏長の推挙によって、幕府より登用の話があったものの、故あって固辞したという[11]。そのため、忠昌より剃髪および医服の着用を命じられた[12][注釈 6]。このとき名を良庵と改め、「宿志達せんと欲するも強て行われず、秋来て扇の筐底に蔵するに等し」として、秋扇と号した[12]

正保2年(1645年)、藩主忠昌が没すると、その次男であるが正室の子であった松平光通が福井藩を相続し、庶兄の松平昌勝が5万石の松岡藩に分封されることとなった[14]。その際、福井藩のうちから磯野岩見(1,700石)、平岡右近(1,450石)以下45名が昌勝付きとなり、良庵も主命により昌勝付きの松岡藩士となった[15]

松岡藩分封の際、幕府より新規の築城は許されず、館(陣屋)が造営されることとなった[16]慶安元年(1648年)、館は勝山街道沿いの吉田郡芝原庄に置くことと定められ、同地は松岡と改称された[16]。館の構築には、陣構えや築城法に通じる良庵が総督となり、これに当たった[17]。 館は、九頭竜川南岸の河岸段丘の上にあり、館を囲んで武家屋敷を配置。東側を表として東西南の3方に土居水堀を巡らし、東側の武家地の端に接して鉤状に折れ曲った勝山街道を通す構造であった[16]。寄せ手の通り抜けや見通しを困難にするための曲り角(鍵の手)は意図的に何度も設けられ、曲り角の数から「十二曲り」「松岡十二曲り」と呼ばれる[18]。屋敷割りは慶安2年(1649年)9月に、承応2年(1653年)からは館の普請が行われた[19]。これが松岡館である。藩主昌勝は、承応3年(1654年)6月に入部[20]。街道に沿って町屋が形成され、町は陣屋町として発展した[21]

良庵は、松岡藩に移った後も、本藩である福井藩の藩主・松平光通や、その弟で越前吉江藩主の松平昌親[注釈 7]に召され、兵法を講じたという[12]

寛文8年(1668年)、68歳にて没した[17]法号は清澄院良庵秋月居士[17]福井の本妙寺に葬られたが、後年、墓は泰遠寺に移った[22]

軍学思想

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良庵の軍学思想の一端については、加賀藩の儒学者・青地礼幹の随筆集『可観小説』[注釈 8]に、次のような話が残されている。

当時の軍学においては、「大星の大事」[注釈 9]なることが兵書にて流布され、事々しく秘伝とする流派もあったとされる。しかし、良庵の門弟・鈴木宗隋によれば、良庵は、この大星なるものについては戦攻の益にならぬとして重視しなかったという[23]

家系

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父祖

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父や祖父は医者であったとされる[13]。父の正盛は京都の人で、通仙院と称し、医をもって朝廷に仕え、法橋の位に叙せられたという[3]

また一説には、良庵は、松平忠昌に禄300石で仕えた三河出身の藩士・片山左馬の一族であるともいう[24][注釈 10]

子孫

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良庵の死後、その家督嫡男の栄庵正貞が継いだ[25]。この系統では、栄庵に次ぐ三代目の玄悦重之が武頭、横目、奉行物頭末番外、四代目の與三右衛門が御大番、表小姓、御裏役、郡奉行、五代目の與三右衛門が大御番を務めた[25]。四代目・與三右衛門については、藩主・松平宗矩より郡奉行に抜擢され、あるとき音物を持参する者がありこれを受け取ったがその訴訟を極めて公平に判断したことから、音物の悪弊が止んだという逸話が残されている[26]

良庵の次男・瀬左衛門森利は、良庵死後その知行のうち100石の分知を受けて[注釈 11]別家を立て、作事奉行、郡奉行、寺社郡兼役、旗奉行を務めた[27]。この系統は、森利の子・彌五右衛門武續がその跡を継いだ[25][注釈 12]。武續の弟・儀右衛門重長は、父・森利隠居の際、50石を分知され、森利の母方・高屋の姓に改めたが後に片山に復した[27]

師弟

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  • 藤原惺窩
    儒学の師。
  • 渋江正真
    兵法を小幡景憲より学び良庵に伝えた[28]、あるいは、北条氏長からその著である兵法書「師鑑」を伝えられ良庵にこれを伝えたという[8]。渋江の多数の弟子のうち、良庵は「第一の者」であったとされる[29]。渋江の門人・戸田実縄は、対馬府中藩に仕え、この学統は同藩にて続いたが、戸田実縄の子孫・戸田暢明が記した『本家兵法来歴』によると、この系統においては、北条氏長の『師鑑抄』を中心に、良庵の『高名穿鑿帳』なども伝書として伝授の対象とされた[30]
  • 北条氏長
    甲州流軍学を大成した小幡景憲の弟子で、北条流軍学の祖。良庵は氏長の弟子という[31]。良庵は、小幡景憲、北条氏長両者の編になる『高名穿鑿帳』を補遺している[32]

弟子

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  • 明石貞弘
    良庵の門人として軍学を学ぶ[33]。通称・藤太夫。明石全登の兄の一族といい、福井藩家老家酒井玄蕃の与力であったが、正徳5年(1715年)8月、甲州流軍学をもって藩士に取り立てられる[34]。著書に『越前古城蹟』[35]、『南越雑話』[36]。次男の明石慶弘(通称・甚左衛門)も甲州流軍学者として福井藩に仕え、藩内における甲州流軍学の勢力を強めた[37]
  • 片山包道
    通称・強右衛門。良庵の一族で、北条氏長が編んだ「師鑑(前ノ師鑑)」を良庵が書き改めた「師鑑(後ノ師鑑)」の伝えを受けたという[8]
  • 鈴木宗随
    越前の人。良庵の軍学の門弟で、加賀国金沢にて70歳ほどで没したという[23]
  • 二木守良
    良庵の門人として軍学を学ぶ。通称・治部右衛門。豊前小倉藩小笠原家に仕えた二木勘右衛門の次男[38]越中富山藩士で、初代藩主・前田利次、第2代藩主・前田正甫に仕えた[39]。富山藩では前田利次が藩の兵法として、大橋玄可の楠流と、北条氏長→片山良庵→二木守良と受け継がれた北条流を採用し、以後も守良の門下により、富山藩前田家におけるこの系統が続いた[40][注釈 13]。守良は、御小姓組に属していたが、北条流軍学に練達していたため藩の兵法に携わることとなったものという[41]
  • 真柄安勝
    良庵の門人として軍学を学ぶ。越後長岡藩士。以後も安勝の門下により、長岡藩牧野家における北条流軍学の伝統が続き、この系譜は9代藩主・牧野忠精に仕えた高野常道にまで至った[42][注釈 14]
  • 三岡幸庵
    江戸浅草で良庵の門人として医術を学ぶ[43]。三岡家は、由利維平の後裔といい、治郎左衛門佐栄の代に三岡姓を称した[44]。佐栄およびその子・新兵衛は松平忠昌に仕えたが、新兵衛は直諫を疎まれ致仕。後にこれを哀れんだ松平昌勝が、新兵衛を探すも所在が分らず、新兵衛の弟・幸庵が良庵に医を学ぶと聞き、禄150石で三岡家を再興させたという[45]。幸庵の跡は新兵衛の子・新八郎が継ぎ、その5代後が福井藩主・松平春嶽に仕え、維新の元勲の1人として知られる由利公正(三岡八郎)である[46]

著作

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注釈

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  1. ^ 漢籍の4分類。経部(経書)、史部(史書)、子部(諸子)、集部(詩文集)を指す。
  2. ^ この病について、『越前人物志 上』466頁は「」とし、『続片聾記 中』579頁は「疱」とする。
  3. ^ 一方で、『越前人物志 上』466頁には「父を片山正盛と云」と、父の代から片山姓であったと読める記載がある。
  4. ^ 松平忠昌は、信州松代藩→越後高田藩→福井藩の順で移封されている。
  5. ^ なお、越前福井藩下屋敷は、現在の墨田区役所がある隅田川のほとりにあり[1]、下屋敷ながら藩士が居住する長屋があったという[2]
  6. ^ 『高名穿鑿帳』3/21コマ右頁に、「寛永十有七之年春」付けで「沙弥 片山秋扇書」とあるため、剃髪は寛政17年春以前。
  7. ^ 当時の名乗りは昌明。
  8. ^ 小説とは、ノベルではなく国史・正史に対する稗史の意。
  9. ^ 大星は日神の尊称。日神信仰が軍配に結びついたもので、小幡景憲が甲州流大星伝としてまとめ、甲州流、北条流、山鹿流をはじめ軍学の各流派において秘伝とされていた。北条氏長も、天照大神の日徳の奉戴が必勝の途であるなどとし、その兵法極意を「大星伝」としていた(『日本武学史』200-203頁)。
  10. ^ 『続片聾記 中』579頁には、良庵に関する記載と、その子栄庵に関する記載の間に、「忠昌公御代左馬助三百石」との記載がある。
  11. ^ 元禄3年(1691年)、さらに50石加増されている(『続片聾記 下』548頁〔続片聾記 巻十〕)。
  12. ^ 享保6年(1721年)、松岡藩は、藩主の松平宗昌が福井本藩を継いだことで、本藩に併合され廃藩となったが、その後の旧松岡藩士屋敷の福井への引移しは、享保11年(1726年)、当時目付であった片山彌五右衛門らに命じられた(『吉田郡誌』466頁)。
  13. ^ この学統の系譜は次のとおり。片山良庵 ― 二木守良 ― 二木守全 ― 二木守晨 ― 楢林備英 ― 西尾親庸 ― 吉川敬明(『富山藩武術ニ関スル記録』による)。
  14. ^ この学統の系譜は次のとおり。片山良庵 ― 真柄安勝 ― 小倉実重 ― 秋原正族 ― 木村正敬 ― 九里成照 ― 名児耶根麻 ― 秋原政勝 ― 秋原政甫 ― 九里成誉 ― 高野常道(『日本兵法史』424頁〔長岡市個人蔵『伝統之巻』による〕)。

出典

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  1. ^ 富山県立図書館サイト内の古絵図・貴重書ギャラリー > 貴重書・古絵図紹介にある『富山藩武術ニ関スル記録』56/61コマ左頁,58/61コマ右頁、渋谷孝本『諸芸雑志』巻九 71/128コマ右頁,74/128コマ右頁はいずれも「直竒」。筑波大学附属図書館所蔵の『古戦場夜話』81/81コマには「直竒」に「ナヲヨリ」の振り仮名。古戦塲夜話 - CiNiiは「直寄」と記載。
  2. ^ 『日本人名大辞典』500頁、『若越墓碑めぐり』4頁
  3. ^ a b c d 『越前人物志 上』466頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁
  4. ^ 『越前人物志 上』466頁、『続片聾記 中』579頁
  5. ^ a b 『続片聾記 中』579頁、『越前人物志 上』466頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁
  6. ^ 『富山藩武術ニ関スル記録』56/61コマ左頁、57/61コマ右頁
  7. ^ 『富山藩武術ニ関スル記録』57/61コマ左頁
  8. ^ a b c 『一騎武者受用巻講義』3/52コマ右頁 - 福井市立図書館 越国文庫コレクション(同書が、原著者の北条氏長より、改訂した良庵やその門人を経て伝来した経緯を説明する中で、良庵の略歴に触れる)
  9. ^ 『越前人物志 上』466-467頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁、『一騎武者受用巻講義』3/52コマ右頁
  10. ^ 『国書解題』710頁、『富山藩武術ニ関スル記録』56/61コマ左頁
  11. ^ a b c d 『越前人物志 上』467頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁
  12. ^ a b c d 『越前人物志 上』467頁
  13. ^ a b c 『国書解題』710頁
  14. ^ 『越前人物志 上』467頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁、『藩史大事典 第3巻』258頁
  15. ^ 『越前人物志 上』467頁、『一騎武者受用巻講義』3/52コマ右頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁、『藩史大事典 第3巻』258頁、『続片聾記 下』19-20頁
  16. ^ a b c 『藩史大事典 第3巻』258頁、『角川日本地名大辞典 18 福井県』1056頁、『福井県の地名』221頁
  17. ^ a b c 『越前人物志 上』467頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』305頁
  18. ^ まつおかまちあるき絵図”. 永平寺町. 2020年11月16日閲覧。
  19. ^ 『吉田郡誌』466頁『続片聾記7巻』8/446コマ - 福井市立郷土歴史博物館デジタルアーカイブ
  20. ^ 『国史大辞典 第13巻』99頁、『越前国名蹟考 巻4-7』683頁
  21. ^ 『藩史大事典 第3巻』258頁、『角川日本地名大辞典 18 福井県』1056頁
  22. ^ 『若越墓碑めぐり』4頁
  23. ^ a b 『可観小説前編』71頁
  24. ^ 『越藩史略 巻之4-8』139頁
  25. ^ a b c 『越前人物志 上』467頁、『続片聾記 中』579頁〔続片聾記 巻七〕
  26. ^ 『越前人物志 上』426-427頁
  27. ^ a b 『越前人物志 上』467頁、『続片聾記 中』579頁〔続片聾記 巻七〕、『続片聾記 下』548頁〔続片聾記 巻十〕
  28. ^ 『越藩史略 巻之1-3』71頁
  29. ^ 『金沢古蹟志』28巻24-25頁
  30. ^ 『日本兵法史 上』423-424頁、434-436頁
  31. ^ 高名穿鑿帳 : 1640|書誌詳細|国立国会図書館サーチ、『日本兵法史 上』423-424頁
  32. ^ a b 高名穿鑿帳 : 1640|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
  33. ^ 『越前人物志 上』501頁
  34. ^ 『越前人物志 上』499-500頁、『福井藩士履歴1』19頁
  35. ^ 『国書解題』210頁
  36. ^ 南越雑話 - 国文学研究資料館 2018年6月5日閲覧。
  37. ^ 『越前人物志 上』499-502頁、『三百藩家臣人名事典 第3巻』297頁
  38. ^ 『富山藩武術ニ関スル記録』57/61コマ左頁、『諸芸雑志』巻九73/128コマ右頁
  39. ^ 『富山藩武術ニ関スル記録』57/61コマ左頁、『日本兵法史 上』424頁、『越中史料 巻之二』531頁
  40. ^ 『三百藩家臣人名事典 第3巻』170頁、『富山藩武術ニ関スル記録』57/61コマ左頁、『日本兵法史 上』423-424頁、『富山県の教育史』89頁
  41. ^ 『越中史料 巻之二』531頁
  42. ^ 『日本兵法史 上』423-424頁
  43. ^ 『由利公正傳』4頁附録13頁
  44. ^ 『由利公正傳』3-4頁
  45. ^ 『由利公正傳』4-5頁、附録13頁
  46. ^ 『由利公正傳』5頁
  47. ^ 『補訂版 国書総目録 3』477頁、古戦場夜話 (写)|書誌詳細|国立国会図書館サーチ国立公文書館 デジタルアーカイブ検索結果詳細>古戦場夜話 - 筑波大学附属図書館、国立博物館所蔵品統合検索システム片山良庵 - 国文学研究資料館
  48. ^ 「福井図書館主催第二回郷土資料展覧会出品目録」『郷土資料展覧会出品目録』29頁
  49. ^ 『補訂版 国書総目録 3』302頁
  50. ^ 『補訂版 国書総目録 1』247頁、国立公文書館 デジタルアーカイブ
  51. ^ 『続史籍集覧 第10冊』108頁、『国書解題』110頁
  52. ^ 加越能文庫解説目録下巻442頁(PDF456頁)

参考文献

[編集]
  • 井上翼章編『越藩史略 巻之1-3』71頁(中村興文堂,1901)
  • 井上翼章編『越藩史略 巻之4-8』71頁(中村興文堂,1901)
  • 井上翼章編『越前国名蹟考 巻4-7』(中村興文堂・品川書店,1902)
  • 佐村八郎『国書解題』(吉川半七ほか,1904)
  • 『吉田郡誌』(吉田郡,1909)
  • 『越中史料 巻之二』(富山県,1909)
  • 福田源三郎『越前人物志 上』(玉雪堂,1910)
  • 三岡丈夫編『由利公正傳』(光融館,1915)
  • 「福井図書館主催第二回郷土資料展覧会出品目録」福井図書館『郷土資料展覧会出品目録』(福井図書館,1929)
  • 近藤瓶城編『続史籍集覧 第10冊』(近藤出版部,1930)
  • 石橋重吉編『若越墓碑めぐり』(若越掃苔会,1932)
  • 森田平次著,日置謙校訂『金沢古蹟志』(金沢文化協会,1934)
  • 青地礼幹『加越能叢書 可観小説前編』巻4(金沢文化協会,1936)
  • 福井県立図書館,福井県郷土誌懇談会編『続片聾記 中』(福井県立図書館,1956)
  • 福井県立図書館,福井県郷土誌懇談会編『続片聾記 下』(福井県立図書館,1957)
  • 石岡久夫編『北条流兵法』(人物往来社,1967)
  • 石岡久夫『日本兵法史 兵法学の源流と展開 上』(雄山閣,1972)
  • 『日本歴史地名大系 18 福井県の地名』(平凡社,1981)ISBN 4582490182
  • 坂井誠一,高瀬保編著『富山県の教育史』(思文閣出版,1985)ISBN 4784204067
  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第3巻』(新人物往来社,1988)ISBN 4404015038
  • 木村礎ほか編『藩史大事典 第3巻(中部編 1 北陸・甲信越)』(雄山閣出版,1989)ISBN 4639008880
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 18 福井県』(角川書店,1989)ISBN 4040011805
  • 国書総目録 第1巻 補訂版』(岩波書店,1989)ISBN 4000086014
  • 『国書総目録 第3巻 補訂版』(岩波書店,1990)ISBN 4000086030
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第13巻』(吉川弘文館,1992)ISBN 4642005137
  • 上田正昭ほか監修『日本人名大辞典』(講談社,2001)ISBN 4062108003
  • 福井県文書館編『福井藩士履歴1 (あ-え)』(2013,福井県文書館)

関連資料

[編集]
  • 芳賀矢一『日本人名辞典』1144頁(大倉書店,1916)
  • 大日本人名辞書刊行会編『大日本人名辞書 上巻』693頁(大日本人名辞書刊行会,1926)
  • 村田英彦「山鹿素行先生の國體觀」財団法人明治聖徳記念学会紀要43巻61-68頁(1935)
  • 日本乗馬協会編『日本馬術史 4巻』参考書目9頁(大日本騎道会,1940)
  • 平凡社編『大人名事典 第2巻』64頁(平凡社,1953)
  • 佐藤直助,平田耿二編『新版世界人名辞典日本編』170頁(東京堂出版,1973)
  • 福井市役所編『稿本福井市史』139頁(歴史図書社,1973)
  • 鈴木準道著,舟沢茂樹校訂『福井藩史事典』354頁(歴史図書社,1977)
  • 佐藤直助,平田耿二編『新版 世界人名辞典 日本編』170頁(東京堂出版,10版,1978)
  • 島田勇雄「兵法諸流と武者言葉との関係についての試論 ―甲州流諸派の武者言葉集について(一)―」甲南女子大学研究紀要15号282-235頁(1978)
  • 漆山又四郎編『近世人名辞典 名号引き 2』63頁(青裳堂書店,1985)
  • 日本歴史大辞典編集委員会編『日本歴史大辞典 第3巻』15頁(河出書房新社,1985) ISBN 4309609031
  • 三省堂編修所編『コンサイス日本人名事典』331頁(三省堂,1991) ISBN 4385154406
  • 新潮社辞典編集部編『新潮日本人名辞典』468頁(新潮社,1991) ISBN 4107302105
  • 三上一夫,舟澤茂樹 編『由利公正のすべて』34頁(新人物往来社,2001)ISBN 4404029039
  • 氏家幹人『かたき討ち 復讐の作法』151頁(中央公論新社,2007)ISBN 9784121018830

外部リンク

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