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爪木晩山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

爪木 晩山(つまき ばんざん、寛文2年〈1662年〉 - 享保15年8月15日1730年9月26日〉)は江戸時代中期の俳人京都の人。初号は永可、別号に唫花堂、ニ童斎。

生涯

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寛文2年(1662年)生まれ[1]貞門派宮川松堅俳諧を学び[2]元禄初年から活動が見られる[1]。この頃は御幸町通錦小路上ルに在住[1]。元禄3年(1690年)に刊行した『千世の古道』が、中島随流門下と見られる暁ノ夢助[3]『京大坂誹諧山獺評判』に「晩山本式百韻批判の事」として批判され、元禄5年(1692年)門弟石柱が『獏物語』で反論を行った[1]

元禄12年(1699)頃能登国七尾に旅して在地の俳人と交わり、その後涼風軒菊池提要編『能登釜』、細流軒大野長久編『欅炭』、余力堂勝木勤文編『珠洲之海』、大恵堂樹水編『誹諧伊勢参』に序跋を寄せている[1]。元禄17年(1704年)、加藤磐斎の旧宅を購入し、富小路通仏光寺下ルに移住した[1]宝永5年(1708年)、天橋立に旅行して『橋立案内誌』を刊行した[1]

享保15年(1730年)8月15日死去[1]辞世は「まめで居よ身はならはしの草の露」[1]。遺言により双ヶ丘長泉寺吉田兼好墓の隣に建てられたが、大正11年(1922年)には所在不明となっている[1]

編著

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『千世の古道』
元禄3年(1690年)6月5日刊。一門による百韻。現存せず[1]
『橋立案内誌』
宝永5年(1708年)刊。上巻は天橋立紀行で、密厳寺成就院、知恩寺和泉式部墓、斉藤徳元墓、天橋立を巡り、古人の詩歌や宮津周辺の俳人の発句を収録する。下巻は旅における連句集[1]
『橋立案内誌追加』
正徳3年(1713年)3月刊。『橋立案内誌』の続編だが、天橋立とは無関係で、古今の発句を無作為に収録する[1]
『俳諧水名瀬川大伝授』
正徳4年(1714年)12月25日射馬郁麿に与えたてにをは秘伝書[1]

文化財

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 雲英末雄「爪木晩山年譜稿」『連歌俳諧研究』60号、1981年
  2. ^ 雲英末雄「爪木晩山年譜稿補訂」『連歌俳諧研究』61号、1981年
  3. ^ 建仁寺門前鶴林の僧とされる。
  4. ^ 俳諧百人一首額 - 志賀町

外部リンク

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