無総督時代
無総督時代(むそうとくじだい、オランダ語: Stadhouderloze Tijdperk)は、オラニエ公ウィレム3世(イングランド王ウィリアム3世)の総督時代(1672年 - 1702年)を挟む1650年から1747年までの間、2度にわたってネーデルラント連邦共和国においてホラントなどの主要な州で総督が置かれなかった時代を指す。
無総督時代をすぎてから、オランダ資本はイングランド銀行株などへ逃避した。
ネーデルラント連邦共和国の政体
[編集]政体はオラニエ公マウリッツの総督時代前半に固まった。法律上、議会での票決権は各州平等であった。しかし、ホラント州は国の全人口の半分を占め、政府予算の58%を負担したので[1]、政治の実権は同州議会の法律顧問[2]が握った。その同州議会に予算の44%を出していたのはアムステルダム市である。同市は、アルクマール、ホールン、ゴーダ、スヒーダムなどを味方につけて、ホラントの議会と執行機関を主導した。そしてアムステルダムは特権的豪商のレヘント層と彼らの選ぶ市長による寡頭政治に支配された[3]。レヘントは国の経済と外交に干渉した。レヘントは議会派・総督派・中間派に分かれて政権争いを展開し、互いに妥協することなくヘゲモニーを交代した。有名なレヘントはデ・グラーフ家とビッカー家である。前者からは近代にディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックが出ている。後者からは後述のヨハン・デ・ウィットが出ている。この両家は娘を互いに政略結婚させることにより同一の閨閥をつくった。
第一回無総督時代
[編集]1650年にウィレム2世が急死すると、総督派勢力は瓦解した。そこでビッカー家出身のヨハン・デ・ウィットがホラント州議会の法律顧問として国政をリードした。オラニエ=ナッサウ家と総督派の親英仏・嫌西路線は機軸でなくなり、商業とくに海上航行の自由という州主権の確立が至上命題となった。そしてついにアムステルダム銀行とシティ・オブ・ロンドン間の商戦は第一次・二次英蘭戦争に発展した。この時代レヘントの中には、オランダ東インド会社・オランダ西インド会社および土地・公債へ資本を投下して、本業より政治に没頭する者が現れるようになった。
デ・フラーフ家のコルネリスが1664年に死んだのを機会に、カルヴァン主義のヒリス・ファルケニールが中間派に台頭した。最初デ・ウィットら議会派と協力したが、ウィレム3世が総督派を結集して勢いを増すと、ヒリスは離反してウィレムを支持した。1672年にデ・ウィットが失脚してウィレムが総督になった。ウィレムがアムステルダム市政の要職に取り巻きの総督派を就けようとすると、ファルケニールはこれを妨害した。しかしファルケニールが1680年に死んで、後釜のニコラス・ウィッツェンとヨアネス・フッデは闘争せずに妥協した。1690年以降は市政を牛耳るヨアン・コルファがウィレムに追従した。
第二回無総督時代
[編集]16世紀にアムステルダムの民衆と市内に雑居していたレヘントは、ヘーレン・ケイザー・プリンセン運河に沿って新しく造成された居住区に豪邸を建てたり、アムステル川などに沿って別荘を構えるようになったので、17世紀末には夏の参事会がほとんど開かれなくなっていた。ウィレム3世が1702年に死んでから、州間・都市間に対立が深まっていたが、レヘントは無政府状態につけこみ汚職を流行らせた。コルファ家はヨアンが1716年に死んでからも栄えた。
18世紀からは東西インド会社にユダヤ人が資本投下するようになった[4]。オランダ自身も外債引受に精を出した。なかんずくオーストリアは17世紀末からの顧客であり、1714年にはシレジアの税収を担保に年利8%で250万グルデンを起債した。1719年からアムステルダム証券取引所にはイギリスなどの諸外国の債券と株式が上場した。1734年にオーストリアが先の8%外債を6%へ借り換えた。1736年にやはりシレジア税を担保に5%利付き外債が発行された。1737年にはボヘミアの税収を担保にした起債が連邦議会の反対にあった。そのかわり、ユトレヒト州議会の保証で250万グルデンが発行された。1739年にはオーストリア専売のイドリヤ産水銀を担保に5%利付き外債が発行された。[5]こうしてオーストリア・ロシア・トルコ戦争の軍事費が調達された。
ロンドンのオースティン・フィアーズ(Austin Friars)はユグノーが集住するコロニーであったが、それは閨閥と共同事業により独自の社会として成長し、南海泡沫事件の後イギリス債券投資を本格化させた。ネック準男爵(Joshua van Neck)、ミルマン家(ex. Richard Muilman)、マシュー・デッカー(Matthew Decker)などがいた。ロシア公債取引の窓口を営んだ者もいた(Herman Isaac de Smeth)。ネック準男爵の娘はトーマス・ウォルポール(Thomas Walpole)と結婚した。1733年以降のコロニーはイギリス債券市場の市場価格データをアムステルダムの会社に送り続けた(Jan Isaac de Neufville & Comp.)。オランダのあらゆる階層の貯蓄部分がイギリス債券に集中投下された。オランダのシェアは英国内で機密あつかいされた。資金はオーストリア継承戦争やジャコバイトの鎮圧に使われた。こうした軍需が一部の生産資本や商業資本を潤おした。[6]
参考文献
[編集]- 栗原福也 「オランダ共和国における大商人層の支配」[7]
脚注
[編集]- ^ 川口博 「議会と主権 オランダ共和国の成立」 おわりに
- ^ 英語でGrand pensionary, オランダ語でRaadpensionaris
- ^ レヘントについて、彼らの収入は有事を除いて課税されなかった。公職については無給であったが、法定利息で州の出費を立て替え払いすることができた。州の資金調達をその利率より抑えることができれば、差額を懐に入れることができたのである。徴税は中流階級が入札で請負ったから、打ちこわしやデフォルトがたびたび起きてもレヘントは矢面に立たなかった。
- ^ 永積昭 『オランダ東インド会社』 近藤出版 1981年 p.39.
- ^ 富田俊基 『国債の歴史 金利に凝縮された過去と未来』 東洋経済新報社 2006年 pp.118-119.
- ^ 仙田左千夫 「イギリス長期公債とオランダ資本」 彦根論叢 194号 1979年2月 111-125頁
- ^ 2016年4月7日編集時、冒頭を除いて出典が明記されていない記事全体