瀬田熊太郎
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瀬田 熊太郎(せた くまたろう、1877年(明治10年)4月12日[1] - 1945年(昭和20年)11月6日[2])は、日本の政治家、実業家、商人(農具商)[3]、精米業者[4]、地主[5][6][7]。
経歴
[編集]物品貸付業[1]、農具商[3]、精米業[4]、農業[8][9][10]などを営んだ。エステー自動車商会長、東京ガレージ常務取締役、伊豆水産、日本住宅各取締役[1]、東京府北豊島郡上板橋村会議員[1]、同村青年団名誉団員、同村在郷軍人分会名誉会員、同村学務委員、北豊島郡町村組合会議員、同村消防組委員などをつとめた[1]。
1945年11月6日に死去[2]。行年69才[2]。東京都豊島区雑司が谷の霊園に墓がある[2]。
人物
[編集]板橋町大山の質商・瀬田文次郎の弟[11]、瀬田醻一の叔父[12]である。住所は上板橋村字宿[1](現・板橋区弥生町)、上板橋一丁目[3][4][6][7]。
2009年5月に板橋区弥生町で発生した板橋資産家夫婦放火殺人事件の被害者の男性は瀬田熊太郎家の出身である[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『東京府市名誉録』北豊島郡之部(上板橋村)54頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月30日閲覧。
- ^ a b c d e “板橋の資産家放火殺人事件未解決、あれから3年〜雑司ヶ谷へお墓参り”. 池袋TV. YouTube (2012年5月25日). 2024年8月13日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第31版』東京セの部491頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
- ^ a b c 『現代人名辞典』セ11頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月3日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第40版』東京セの部312頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月7日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第41版』東京セの部337頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月30日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第34版』東京ス、セの部417頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月23日閲覧。
- ^ 『東京紳士録 昭和9年版』東京セの部440頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月11日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第32版』東京セの部428頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第33版』東京セの部449頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月7日閲覧。
- ^ 『板橋町誌』22 - 23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月6日閲覧。
- ^ 『北豊島郡総覧 昭和6年度版』せ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 古林亀治郎編『現代人名辞典』中央通信社、1912年。
- 山田元礼『板橋町誌』板橋新聞社、1924年。
- 篠田皇民『東京府市名誉録』東京人事調査所、1925年。
- 交詢社編『日本紳士録 第31版』交詢社、1927年。
- 交詢社編『日本紳士録 第32版』交詢社、1928年。
- 交詢社編『日本紳士録 第33版』交詢社、1929年。
- 交詢社編『日本紳士録 第34版』交詢社、1930年。
- 大正毎日新聞社編『北豊島郡総覧 昭和6年度版』北豊島総覧社、1932年。
- 国際公論社編『東京紳士録 昭和9年版』国際公論社、1934年。
- 交詢社編『日本紳士録 第40版』交詢社、1936年。
- 交詢社編『日本紳士録 第41版』交詢社、1937年。