澤瀉久孝
表示
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1890年7月12日 日本・三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市) |
死没 |
1968年10月14日(78歳没) 日本・静岡県静岡市 心不全 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都帝国大学 |
学問 | |
時代 | 大正・昭和 |
研究分野 | 上代文学 |
研究機関 |
京都大学 関西大学 ノートルダム清心女子大学 皇學館大学 |
主な指導学生 |
伊藤博 西宮一民など |
学位 | 文学博士 |
主な業績 | 『万葉集』の研究 |
主要な作品 | 『萬葉集注釈』 |
学会 |
萬葉学会 神道史学会 |
主な受賞歴 | 朝日賞(第37回) |
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月12日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士[1]。
来歴
[編集]1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市)に生まれる。大阪大学などで教鞭を執ったフランス哲学研究者澤瀉久敬は実弟。
三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)・第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学文科大学文学科国文学専攻卒業。第五高等学校教授を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学文学部助教授、1936年(昭和11年)に同教授に就任。その前年に文学博士の学位を授与されている。学位論文の題は「上代歌謡ノ作者及ビ時代考」[2]。1951年(昭和26年)、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となる。退職後は関西大学、ノートルダム清心女子大学、皇學館大学、京都女子大学[3]で教鞭を執る。
1951年、萬葉学会が設立された際、その代表者に推される。1968年10月14日、その萬葉学会全国大会で講演を行なうため滞在していた静岡市で、心不全のため死去[3][4]。
業績
[編集]研究人生を『万葉集』一筋に費やした万葉(萬葉)学研究の大家で、特に訓詁の重要性を説いた。代表作『萬葉集注釈』の完成に対し、1967年(昭和42年)に第37回朝日賞が贈られた[5]。
教え子には、『萬葉集釋注』(集英社文庫版全10巻)で知られる伊藤博、『古事記』の研究で有名な西宮一民などがいる。
主な著作
[編集]- 『国文学講座 第6巻』受験講座刊行会、1930年7月。doi:10.11501/1120154。
- 『萬葉集新釈』(上・下、星野書店、1931)
- 『萬葉集新釈 上巻』(改正4版)星野書店、1935年7月。doi:10.11501/1146612。
- 『上代文学選 上』三省堂〈新制高等国文叢書〉、1941年2月。doi:10.11501/1456581。
- 『萬葉の作品と時代』(岩波書店、1941、復刊1979)
- 『萬葉古径 1』(弘文堂書房、1941)
- 『萬葉集 巻第1・2』東京武蔵野書院、1940年4月。doi:10.11501/1035194。
- 『萬葉集序説』楽浪書院、1941年12月。doi:10.11501/1127445。
- 『萬葉集講話』出来島書店、1942年1月。doi:10.11501/1127447。
- 『万葉集講話』(講談社学術文庫、1986)
- 『萬葉佳品抄』全国書房、1943年3月。doi:10.11501/1124043。
- 『玄米の味』(新日本図書株式会社、1946)
- 『古典に恋ふ』(講談社、1949)
- 『看板の無い家』(積慶園、1953)
- 『萬葉集新注』(白楊社、1955)
- 『萬葉歌人の誕生』(平凡社、1956)
- 『萬葉集注釈』(全20巻、中央公論社、1957-)
- 新版1982-。新版は+別巻2(本文篇・索引篇)
- 『英吉利からの便り』(私家版、1987)
- 主著『萬葉集注釈』の毛筆原稿をはじめとした蔵書は「澤瀉文庫」として皇學館大学附属図書館に所蔵されている。