有漏
仏教用語 漏 | |
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パーリ語 | Āsava |
サンスクリット語 | Āsava |
中国語 | 漏 |
日本語 | 漏 |
英語 | influx, canker |
有漏(うろ、梵: sāsrava)[1]とは、仏教において、煩悩に関わる法のこと[2]。
漏(ろ、梵: āsrava)は、さまざまな心の汚れを総称して表す言葉で、広い意味で煩悩と同義と考えられる。仏教では「流れ出る」「漏出」の意味に解し(他に「漏世」「漏注」「漏失」などの漢訳語もある)、汚れ・煩悩は六根(視覚・聴覚など五官と心)から流れ出て、心を散乱させるものと説明した[3][4]。そのような汚れのある状態を有漏といい、煩悩に関わらない汚れが滅し尽された状態を無漏(むろ、梵: anāsrava)[2][5][3]という。
漏の数
[編集]三漏
[編集]四漏
[編集]阿毘達磨大毘婆沙論では、以下の四漏を挙げている。これは四暴流とそのまま対応する。
- 欲漏
- 有漏
- 見漏
- 無明漏
七漏
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有漏の状態
[編集]有漏は、厳密には「煩悩の対象となりあるいは煩悩とあい伴うと同時に、煩悩がそれらの上に力をもち、それらをけがすようなもの」という意味となる。たとえば、人はほとけそれ自体を対象として煩悩を起こすこともあるが、ほとけは業・輪廻の世界を超えており、有漏ではない。また、業・輪廻の世界に属するかぎりすべての存在は、善いものも中性のものも悪いものも有漏である[4]。
倶舎論においては、苦・集・滅・道の四諦のうち、苦諦および集諦が有漏に、滅諦(無為の3種類のうち択滅(ちゃくめつ)に同じ。なお、ここでは他の2種類にあたる虚空・非択滅も含む)および道諦が無漏に対応する[6]。図示すれば下記の通り。
一切法[6] | ||
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有為法 | 無為法 | |
有漏法 | 無漏法 | |
・苦諦
・集諦 |
・道諦 | ・滅諦=択滅 |
業と煩悩の世界、平常的人間の世界は有為であって有漏である。さとりの領域に属する涅槃は無為であって無漏である。そして、平常的人間の世界からさとりの領域にすすむ「道(諦)」は、さとりに入っていないから有為であり、同時に煩悩を離れる道だから無漏である[7]と考える。また、倶舎論では「道を除いて余の有為は、彼に於いて漏が随増す」とあり、有漏法は煩悩の対象となるばかりでなく、煩悩がその上にとどまって離れず、なお増大するものであると捉えられている[2]。
一休の句
[編集]禅僧の一休宗純は、師の華叟宗曇からの「洞山三頓」の公案に対し一休が見解を示し、さらに「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」との句を添えたことをきっかけに、華叟宗曇から「一休」の号を授けられた[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 櫻部・上山 2006, p. 仏教基本用語(2).
- ^ a b c 櫻部 2006, p. 60.
- ^ a b 岩波仏教辞典第2版 1998, p. 63.
- ^ a b 櫻部・上山 2006, p. 49.
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 仏教基本用語(9).
- ^ a b 櫻部 2006, p. 61.
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 64.
- ^ 安藤 1985, p. 60.
参考文献
[編集]- 櫻部建、上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1。(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)
- 櫻部建『倶舎論』大蔵出版、1981年。ISBN 978-4-8043-5441-5。
- 中村元他『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 安藤英男『一休 逸話でつづる生涯』鈴木出版、1985年。ISBN 4-7902-1005-7。