溝口宣俊
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長17年(1612年) |
死没 | 寛文9年2月12日(1669年3月13日) |
改名 | 宣俊→性真(法名) |
別名 | 通称:内記 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
氏族 | 溝口氏(池之端溝口家) |
父母 | 父:溝口宣勝、母:堀秀政娘・長寿院 |
兄弟 |
宣直、宣秋、宣俊、宣知、蝶姫、 林清院、桐葉院 |
妻 | 正室:井上庸名娘 |
子 | 宣鎮 |
溝口 宣俊(みぞぐち のぶとし)は、江戸時代前期の旗本寄合。越後国新発田藩2代藩主・溝口宣勝の三男。分家独立して旗本となり、池之端(池端・池ノ端)溝口家の祖となる。通称は内記。
生涯
[編集]元和8年(1622年)に将軍徳川秀忠に初御目見をする。寛永5年(1628年)、父・宣勝の遺領のうち越後蒲原郡の5000石を分与されて寄合に列し、知行地の池之端[1]に陣屋を設ける。これにより宣俊を祖とする家は池之端(池端・池ノ端)溝口家と称された。のちに大名同様に参勤交代することを許され、嫡男の宣鎮の代までこの例が続いた。寛文2年(1662年)、下館城の在番を勤める。寛文9年(1669年)に58歳で歿。法名は性真。江戸深川の海福寺に葬られる。以後同寺は同家代々の葬地となった。家督は長男の宣鎮(のぶしげ)が継いだ。