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満岡伸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

満岡 伸一(みつおか しんいち、1882年明治15年) - 1950年昭和25年))は、アイヌ文化研究家、俳人。妻の照子は北海道白老郡白老町に生まれ育ち、女流歌人として知られる。詩人文月悠光は曾孫にあたる[1]

略伝

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佐賀県佐賀郡鍋島村(現・佐賀市)の蒲原家に誕生。8歳の頃、北海道室蘭市輪西へ移住する。1906年北海道師範学校講習科を卒業後、札幌近郊で教鞭を振るう。1908年、井深照子と結婚。13年後、母の生家再興のため満岡姓を名乗る。1912年白老郵便局長に就任して以降、30年間を白老で過ごし、白老アイヌの「隣人」としてアイヌの風俗・伝承を記録し、それをライフワークとした。1924年にその成果を『アイヌの足跡』(初版)として発刊した。1942年に健康を害して郵便局を退職し、東京府北多摩郡国分寺町(現・国分寺市)へ移住し、その7年後に没する。享年68歳。

満岡夫妻の邸宅は、白老町役場の東隣にあった。夫婦で文学活動をしていたことから知人が多く、著名な歌人を招いた歌会も催された。アイヌの詩人、歌人として著名な森竹竹市は、同夫妻の影響を受けて句作・歌作を始めたと考えられる[2]

アイヌの足跡

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満岡は、1924年に初版を発行してから、1926年に第2版、1931年に第3版(増補)、1932年に第4版、1934年に第5版(増補)、1941年に第6版(増補)までを白老町の田邊真正堂から公刊した。彼の没後も、1962年の第7版から1987年の第9版まで増補がくり返されている。白老を中心としてアイヌの風俗や習慣を生業・家屋・言葉など40以上の項目に分け、詳細に記録し、口絵[注釈 1]や挿絵も満岡本人が描く。初版には火山学者・田中館秀三と河合裸石の序、衆議院議員だった木下三四彦の跋がある。

学術研究のために白老を訪れる人へ向けて執筆された同書は[3]、アイヌ研究資料の一つとして民芸協会の機関誌『民藝』107号で紹介されている[4]

著作

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  • 『アイヌの足跡』満岡伸一、1923年8月。NDLJP:926156 
  • 『アイヌの足跡』真正堂、1924年10月。 
    • 『アイヌの足跡』(第2版)真正堂、1926年9月。 
    • 『アイヌの足跡』(第3版増補)真正堂、1931年5月。 
    • 『アイヌの足跡』(第4版増補)真正堂、1932年5月。 
    • 『アイヌの足跡』(第5版増補)真正堂、1934年7月。NDLJP:1034803 
    • 『アイヌの足跡』(第6版増補)三好竹勇、1941年7月。 
    • 『アイヌの足跡』(第7版増補)三好商店、1962年6月。 
    • 満岡章 編『アイヌの足跡』(増補改訂版)白老民族文化伝承保存財団、1987年2月。 
    • 『アイヌの足跡』(第9版増補)アイヌ民族博物館、2003年3月。 
  • 日本放送協会関東支部 編「アイヌの話」『通俗講話』 第1巻、日本ラヂオ協会〈ラヂオ講演〉、1927年4月。 
  • 『熊の足跡』弘学社、1944年3月。 

関連書

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  • 『冬の星 故満岡伸一悼句・悼歌集』満岡照子、1950年。 NCID BA47608867 

脚注

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注釈

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  1. ^ 4ページ大コロタイプ版で、「明治十四年、九月三日夜 白老行在所庭内に於ける明治天皇天覧のアイヌ熊祭の圖」と説明書きがある。

出典

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  1. ^ https://mobile.twitter.com/luna_yumi/status/1444990683417399306”. Twitter. 2021年10月21日閲覧。
  2. ^ 森竹竹市『森竹竹市遺稿集 評論』森竹竹市研究会、2009年、140頁。 
  3. ^ 満岡伸一『アイヌの足跡』田邊真正堂、1931年、3頁。 
  4. ^ 式場隆三郎 編『民藝 百七』日本民藝協会、1942年、115-116頁。