湯目景康
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 寛永15年2月17日(1638年4月1日) |
改名 | 智喜力(幼名)→湯目景康→津田景康 |
別名 | 又次郎、豊前 |
戒名 | 瑞光院殿真菴天祥大居士 |
墓所 | 佐沼西館跡(宮城県登米市) |
官位 | 民部少輔[1][2]、豊前守 |
主君 | 伊達輝宗→政宗→忠宗 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 湯目氏→津田氏 |
父母 | 父:湯目重康、母:大津光本娘 |
妻 | 正室:高泉隆景娘・西 |
子 |
津田頼康、高泉定康、笠原盛康、 津田行康、津田千兼 |
湯目 景康(ゆのめ かげやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。同名の孫(津田玄蕃景康)と区別するため津田豊前景康と表記される。
出自
[編集]湯目氏は陸奥国長井郡の国人。南北朝時代に伊達氏が長井郡を攻略するとその家臣となった。
生涯
[編集]永禄7年(1564年)、長井郡筑茂城主・湯目重康の子として生まれる。天正5年(1577年)、伊達政宗が元服するとその側近となり、人取橋の戦い・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡佐沼城主となり、1,500石を知行する。
文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、中島宗求と共に伏見の津田が原にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功した。この功により景康は1,000石を加増されると共に、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ津田景康と改名した。
慶長5年(1600年)には奉行に任命され、慶長15年(1610年)に亘理郡坂元城主となるが、元和2年(1616年)には大坂夏の陣での功により3,800石に加増されて再び佐沼城主となった。寛永13年(1636年)、政宗の跡を継いだ仙台藩2代藩主・伊達忠宗により評定役に任命され、奉行職は嫡男・頼康が引き継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『迫町史』(宮城県登米郡迫町、1981年)
- 『南陽市史』上巻(山形県南陽市、1990年)
- 『伊達政宗記録事蹟考記』
- 『貞山公治家記録』(三月八日、三月十四日)