湯川寛吉
ゆかわ かんきち 湯川 寛吉 | |
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生誕 |
慶応4年5月24日(1868年7月13日) 紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目) |
死没 | 昭和6年(1931年)8月23日 |
死因 | 肺炎 |
墓地 | 台東区谷中霊園 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学独法科 |
職業 | 逓信官僚、住友財閥幹部、貴族院議員 |
肩書き | 住友本社総理事 |
任期 | 1925年 - 1930年 |
前任者 | 中田錦吉 |
後任者 | 小倉正恒 |
政党 | 研究会 |
親 | 湯川寛斎、八重 |
受賞 | 正四位勲三等 |
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日[1])は、第5代住友総理事である。
経歴
[編集]慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。
同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。明治30年(1897年)万国郵便会議委員として外遊、同年逓信省参事官、明治31年(1898年)東京郵便電信局長、明治32年(1899年)外務省参事官兼任、明治36年(1903年)東京通信管理局長などを歴任した。
明治38年(1905年)大学の先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入社した。入社と同時に住友本店支配人となり、鈴木総理事の補佐役となった。明治43年(1910年)理事に昇進し、総本店支配人、さらに住友伸銅所支配人を兼ね、鈴木・中田に次ぐナンバースリーに位置した。明治44年(1911年)伸銅場から電線事業を分離し、住友電線製造所(住友電工の前身)を設立した。
大正4年(1915年)には、住友鋳鋼所(住友金属の前身)の取締役、大正14年(1925年)には取締役会長となる。大正4年(1915年)住友銀行筆頭常務に転じ、銀行業務拡張のため欧米を視察。市中邦銀最初の海外支店として、カリフォルニアとハワイに支店を設置した。
大正10年(1922年)大阪手形交換所委員長、ついで大正14年(1925年)住友合資総理事に就任した。総理事就任後は、住友を産銅資本から総合企業へ飛躍させるため、別子鉱業所を住友合資会社の直営から分離し、本社傘下の連系会社にするなど、住友は、海上火災・信託・生命・倉庫・銀行・大阪北港・ビルデイング・林業所・鉱山・炭鉱・伸銅鋼管・製鋼所・電線製造所・日本電気・肥料製造所・日本板硝子の連系各社を擁する総合企業となる。
昭和3年(1928年)停年を迎えたが、若い16代家長住友友成の後見人として停年が3年間延長された。昭和5年(1930年)任期延長を満たさず総理事を辞職し、相談役として、また貴族院議員(1930年12月23日就任[2]、研究会所属[1])として、関西経済界の重鎮となる。しかし昭和6年(1931年)8月23日、インフルエンザによる肺炎により64歳で急逝した。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]外部リンク
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