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渥美政勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渥美 政勝[注釈 1]
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正16年(1588年[1]
死没 寛文5年11月26日1666年1月1日[1]
改名 高木政勝、渥美政勝
別名 又次郎、平大夫、玄蕃、九郎兵衛、久兵衛[1]
戒名 正休[1]
幕府 江戸幕府 書院番、馬預[1]
主君 伊達政宗里見氏徳川秀忠家光松平光長
高田藩藩士
父母 父:渥美友重、母:高木広正の娘[2]
兄弟 政勝、安藤忠兵衛の妻、六左衛門、七郎左衛門、小幡内膳の妻、花井定光の妻[1]
岡島直忠の娘[1]
友貫友勝、女子、多賀谷治部左衛門の妻、安藤武左衛門の妻、政義、小幡長左衛門の妻、根津甚五兵衛の妻、甚三郎、友栄、久大夫[3]
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渥美 政勝(あつみ まさかつ)[注釈 1]は、江戸時代前期の江戸幕府旗本越後高田藩士。

略歴

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三河国渥美郡出身の武士渥美友重の子。母は徳川氏の家臣・高木広正の娘。友重は徳川家康の家臣だったが一時追放されて浪人していたため、最初は伊達政宗に仕え、「政」の偏諱を与えられて高木政勝と称した。次いで安房館山藩里見氏に仕えた。慶長20年(1615年大坂城攻撃のために上洛した徳川秀忠に初めて謁見し、そのまま大坂夏の陣に従軍。元和2年(1616年)からは秀忠の嫡男・家光附きとなる。元和9年(1623年)家光の上洛に従軍。その後、上総国内に500石を与えられ、馬預を務めた[3]

父友重は寛永元年(1624年)より越後高田藩に仕えて家老となっていたが、正保元年(1644年)政勝はその継嗣として高田藩に与力させられ、旗本としては次子・友勝が分家して家督に据えられることとなった。寛文5年(1665年)に79歳で没[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 寛政呈譜は名を「正勝」としている[1]

出典

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参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』 15巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0219-2