渡辺猶人
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渡辺猶人 わたなべ なおと | |
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生年月日 | 1840年12月29日 |
出生地 |
日本 信濃国伊那郡飯田城下 (現・長野県飯田市) |
没年月日 | 1908年6月3日(67歳没) |
前職 | 長野県官吏 |
所属政党 | 憲政党 |
選挙区 | 長野県第7選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1898年8月 - 1902年8月9日 |
在任期間 | 1895年 - ? |
在任期間 | 1891年7月22日 - ? |
下伊那郡会議員 | |
在任期間 | 1891年 - ? |
飯田町会議員 | |
在任期間 | 1889年 - ? |
その他の職歴 | |
更級郡長 埴科郡長 (1883年 - ?) | |
下伊那郡長 (1882年 - ?) |
渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保11年12月6日[1]) - 1908年(明治41年)6月3日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
来歴
[編集]信濃国伊那郡飯田城下に飯田藩士の長男として生まれる。江戸に出て安井息軒に入門し、谷干城らと交誼を結ぶ。帰藩後は父が督学を務めていた藩の文学所の補佐を務めた。明治維新後は大宮神社祠宮を経て、長野県官吏となり、第19大学区第4小区戸長や学区取締などを務め、1882年(明治15年)に下伊那郡長、翌1883年(明治16年)に更級郡・埴科郡長に任命された。1889年(明治22年)に飯田町会議員、1891年(明治24年)に下伊那郡会議員になった。同年7月22日に飯田町長となった[3]。1895年(明治28年)に長野県会議員となり、1898年(明治31年)に第6回衆議院議員総選挙に当選した。町議時代には条約改正問題に反対し、大隈重信外相に建白書を提出した。
実業界にも進出し、協同社社長、下伊那元結社長、南信新聞社重役などを歴任した。
脚注
[編集]- ^ 『衆議院議員列伝』171頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』727頁。
- ^ 『飯田町近世年表略 55コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション