渡辺綱聡
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時代 | 江戸時代末期 - 昭和時代 |
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生誕 | 元治元年8月17日(1864年9月17日) |
死没 | 昭和4年(1929年)11月10日 |
別名 | 通称:半蔵 |
戒名 | 綱聰院殿正四位釈道順 |
墓所 | 愛知県豊田市寺部町の守綱寺 |
官位 | 正四位、男爵 |
主君 | 徳川義宜→明治天皇 |
藩 | 尾張藩家老 |
氏族 | 三河渡辺氏 |
父母 |
父:渡辺綱倫、 母:成瀬正肥養女(渋谷良徳娘) |
子 | 芳綱、修二 |
渡辺 綱聰(わたなべ つなさと)は、江戸時代末期の尾張藩家老、明治期から昭和初期の華族。渡辺半蔵家13代当主。位階爵位は正四位男爵。
生涯
[編集]元治元年(1864年)、尾張藩御年寄加判・渡辺綱倫の長男として誕生した。
同年9月、父・綱倫が禁門の変の際に、長州兵に敗れた責めを負って自害したため、同年12月、渡辺家の家督を相続する。幼いため、存命であった隠居の曽祖父・規綱および分家で尾張藩御年寄列の渡辺新左衛門在綱の後見を受けた。慶応元年(1865年)、尾張藩年寄となる。明治2年(1872年)、代々治めた三河寺部領を政府に奉還する。
1900年(明治33年)、男爵となり華族に列する。1922年(大正11年)1月9日に隠居し[1][2]、同年1月30日、二男・修二が男爵を襲爵した[1][3]。
1929年(昭和4年)11月10日死去。享年66。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『豊田市史』
- 『人事興信録』
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (尾張)渡辺(半蔵)家初代 1900年 - 1922年 |
次代 渡辺修二 |