清野信秀
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄8年(1565年) |
改名 | 清秀(初名)→信秀→美作入道道寿軒 |
官位 | 伊勢守 |
主君 | 村上義清→武田信玄→村上義清→武田信玄 |
氏族 | 清和源氏村上氏流清野氏 |
父母 | 父:清野国俊 |
子 | 雨宮正利 |
清野 信秀(きよの のぶひで)は、戦国時代の武将。信濃村上氏の家臣。信濃国埴科郡鞍骨城主。
略歴
[編集]北信濃の有力豪族村上氏の支流。村上義清に従って武田信玄と戦った。天文19年の(1550年)砥石城の合戦では、9月1日、甲斐武田氏に寝返っており、『高白斎記』には「辛卯。申刻、清野出仕。」と記されている。その後、村上氏に再び従属したが、義清が信玄に敗れると、共に越後国の長尾景虎の許へ逃れる。
永禄2年(1559年)には武田氏に従って旧領の清野郷、雨宮郷を安堵され、偏諱を受け「清秀」を「信秀」と改めた[1]。
脚注
[編集]- ^ 武田信玄、「川中島合戦」戦費の負担求める 北信濃の家臣宛ての書状が見つかる信濃毎日新聞信濃毎日年2月28日