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清野信秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
清野信秀
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄8年(1565年
改名 清秀(初名)→信秀→美作入道道寿軒
官位 伊勢守
主君 村上義清武田信玄→村上義清→武田信玄
氏族 清和源氏村上氏清野氏
父母 父:清野国俊
雨宮正利
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清野 信秀(きよの のぶひで)は、戦国時代武将信濃村上氏の家臣。信濃国埴科郡鞍骨城主。

略歴

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北信濃の有力豪族村上氏の支流。村上義清に従って武田信玄と戦った。天文19年の(1550年砥石城の合戦では、9月1日、甲斐武田氏に寝返っており、『高白斎記』には「辛卯。申刻、清野出仕。」と記されている。その後、村上氏に再び従属したが、義清が信玄に敗れると、共に越後国長尾景虎の許へ逃れる。

永禄2年(1559年)には武田氏に従って旧領の清野郷、雨宮郷を安堵され、偏諱を受け「清秀」を「信秀」と改めた[1]

脚注

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  1. ^ 武田信玄、「川中島合戦」戦費の負担求める 北信濃の家臣宛ての書状が見つかる信濃毎日新聞信濃毎日年2月28日

外部リンク

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