清水仁衛門
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 清水仁右衛門 |
主君 | 古郡文右衛門年明、徳川綱條 |
清水 仁衛門(しみず にえもん)は、江戸時代前期 - 中期にかけての駿河代官の手代[1]、後に牢人、その後常陸国水戸藩(水戸徳川家)に地方功者として雇われた。松波良利の水戸藩雇用に関わったともいわれている[2][3][注 1]。
生涯
[編集]清水の詳しい系譜は不明だが、「御家(水戸藩)に筋目有之者」とあるので、彼の父祖がかつて藩士だったのであろう[4]。宝永6年(1709年)に60歳くらいだったとみて[5]、推定では慶安2年(1649年)に生まれ、寛文3年(1663年)から古郡(ふるごおり)家に誰かの紹介で仕えることになった[4][注 3]。「清水仁衛門殿ト申ハ、元来上州ノ絹ウリ成ルガ、利口人にて大公儀之御代官手代ニ成リ、其レゟ牢人して江戸慶安仲間[7][注 4]ニ渡世して居候ヲ勘十郎殿ゟ召抱候」[1][注 5][注 6][8][注 7]とある。清水は古郡文右衛門に仕えて用水開削事業の技術、管理などの手法を学んだと思われる[9][注 8]。古郡は、元禄5年(1692年) - 元禄7年(1694年)に関東代官(武州、上州)であった[10]。元禄8年(1695年)7月、8月には清水が能登に赴いていた[11]。元禄14年(1701年)ごろまでは、清水が古郡の下で活動していたのではないかとみられる[1]。
「中村雑記」の「駿河大クハン手代200石田地求隠居ノ処ニ水戸ヨリ10人扶持被下候処頭ヨリ断申サセ引込又200石ニテ被召出候也」とあるのは、宝永元年(1704年)10月の20両から宝永4年(1707年)2月の200石までのことをいうかとみられる[注 9]。
清水が水戸藩に雇われたのは、宝永元年10月18日に最初の史料で「御用御頼」として活動した褒美に金20両を来春与えるとあり[13]、宝永2年(1705年)ないし4年である[14][15][注 10]。清水は「郷村等普請之義万端致指図」のために雇われたので、測量の術に達していた[2]。清水を水戸藩に紹介したのは戸次寿仙だと「中村雑記」は記している[2][注 11]が、戸次寿仙のことはわかっていない[17]。
清水は、はじめ15人扶持(宝永3年8月20日)、肩書は吟味並[18]、宝永4年正月27日には紅葉運河(もみじうんが)の掛り役となった[19][20][21][22]。その後、清水は宝永4年6月14日ないし6月17日には南組(南新川御郡)の郡奉行に任命された[23]。同年6月24日には松波勘十郎御用として34人の新メンバーが任命され、清水もここに加えられた[24]。同年7月12日には郡奉行として鍬取掘り初めを行った[25]。実際は同年2月に着工されたという史料(青山延于による『東藩文献志』)もある[26]。
宝永6年に、松波勘十郎と清水仁衛門は処罰された。清水は、牢人より郡代に登用(宝永5年12月9日[3])され、松波を推挙してその片腕となった。罪状は、「郷村取り扱いの節、松波と申し合わせて万端不届の取り扱い」「大分(だいぶ)の金銀を取り扱って同役共へ申し合わさず、藩の為を考えず、我意にまかせて取計らった」。改易欠所(家財没収)、追放、武蔵・下総・常陸・京・大坂、徳川家一門と幕府重職の領分から所構(ところがまえ)(その地域内への立入禁止)を命ぜられる[27]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「弁姦録」によれば、清水は、松波の片腕といわれた。(『弁姦録』本文二巻、附録一巻, 水戸彰考館文庫所蔵で、幕末の藩主徳川斉昭の私文庫たる潜竜閣文庫にふくまれていたもの。著者は不明。)
- ^ 富士川#水害, 雁堤
- ^ 古郡家は有名な駿河代官[6]で、孫太夫重高-重政-重年[注 2]の子、古郡文右衛門年明に仕えていた。
- ^ 慶安仲間とは、寛永年間から存在し、宝永7年(1710年)8月には正式に組合結成を認められた人宿のことであろう。南和男, 『江戸の社会構造』塙書房(塙選書)1969, 201-203ページ
- ^ この文は、潮来の庄屋、関戸利左衛門の「水戸御改革之事」によるもの
- ^ 「其レゟ牢人して江戸慶安仲間ニ渡世して居候ヲ勘十郎殿ゟ召抱候」とは、牢人(隠居)の身分であった清水仁衛門がまず水戸藩に雇用され、その後、松波勘十郎が雇用されるという順序だが、勘十郎が(水戸藩の)奉行上座の格で「勝手向之御用」を司り、自由に改革を指図できる地位に立った(勘十郎の立場は、御客分無格で、対座(上は御家老衆より下は諸手代等までも応対する人の尊卑にかかわらず対座にて指図できる身分))であるのに対して、清水仁衛門は松波の片腕と呼ばれた格下であった。したがって、ここで述べていることは、話を端折って勘十郎が清水を召し抱えたかのように書いてあるわけである。
- ^ 宝永一揆研究会/編『水戸藩宝永一揆史料集』(1988.5), 86-87ページ
- ^ 潤井川から滝戸を切り開いて水を引き、富士川東岸地帯に6000石余の新田を開いた延宝期に、新参の清水が関わっていた可能性がある。
- ^ 清水は駿府代官の手代であったが、200石の田地を買い求めて隠居したという[12]。その資金はどこから出たのであろうか。そこを水戸藩から招いたが、給与条件が折合わず、最初の提案を頭(代官のことであろう)から断らせ、200石に釣り上げたところで水戸藩に就職したというのである[12]。この話は、水戸藩側の史料である程度裏付けられる[12]。
- ^ 清水を招いた時期は正確にははっきりしないが、宝永2年閏四月以前であることは確かである[16]。なお『水戸市史』は、清水は宝永2年10月に召抱えられたとするが[16]、「弁姦録」によれば、彼が正式に召抱えられたのは、宝永4年2月28日である。
- ^ 『中村雑記』は水戸藩士中村浩然良直(1678 - 1738)(彦五郎, 字を子養(しよう), 浩然窩(こうぜんか)と号す)自身が見聞した雑事を記録したもの。浩然は、彰考館総裁中村篁渓(こうけい)の息子である。浩然は、彰考館に30年間勤務した。
出典
[編集]- ^ a b c 林 2007, p. 下224.
- ^ a b c 林 2007, p. 上213.
- ^ a b 吉田 1999, p. 4.
- ^ a b 林 2007, p. 下180.
- ^ 林 2007, p. 下179.
- ^ 林 2007, p. 上406.
- ^ 林 2007, p. 下224, 下234.
- ^ 林 2007, p. 下234.
- ^ 林 2007, p. 下180–181.
- ^ 林 2007, p. 下206–207, 218.
- ^ 林 2007, p. 下221.
- ^ a b c 林 2007, p. 上85.
- ^ 林 2007, p. 上405–407.
- ^ 林 2007, p. 上87.
- ^ 吉田 1999, p. 26.
- ^ a b [[[国立国会図書館オンライン|国立国会図書館書誌ID]]:000001211722 『「水戸市史」中巻(二)』], p. 38
- ^ 林 2007, p. 下193.
- ^ 林 2007, p. 上85, 下40.
- ^ 林 2007, p. 上254–255.
- ^ “さらに詳しく 運河の開削と宝永の一揆”. 関東農政局Webサイト. 2020年9月2日閲覧。
- ^ “松波勘十郎の紅葉運河”. 2020年9月2日閲覧。
- ^ “紅葉運河の掘削事業”. 2020年9月2日閲覧。
- ^ 林 2007, p. 下21, 61, 89, 95, 108.
- ^ 林 2007, p. 下61, 81.
- ^ 林 2007, p. 上372, 400.
- ^ 林 2007, p. 上400–403.
- ^ [[[国立国会図書館オンライン|国立国会図書館書誌ID]]:000001211722 『「水戸市史」中巻(二)』], p. 77–78
参考文献
[編集]- 吉田, 俊純「水戸藩宝永の新法の推進勢力」『東京家政学院筑波女子大学紀要』第3号、東京家政学院筑波女子大学、1999年、286-312頁。
- 基, 林『松波勘十郎捜索 上』平凡社、2007年、472頁。ISBN 978-4-58246-811-3。
- 基, 林『松波勘十郎捜索 下』平凡社、2007年、488頁。ISBN 978-4-58246-812-0。