清原秋雄
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 弘仁3年(812年) |
死没 | 貞観16年4月24日(874年5月13日) |
官位 | 従四位上、右兵衛督 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 清原氏 |
父母 | 父:清原夏野 |
兄弟 | 滝雄、沢雄、秋雄、春子 |
清原 秋雄(きよはら の あきお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。右大臣・清原夏野の四男。官位は従四位上・右兵衛督。
経歴
[編集]天長8年(831年)内舎人。承和元年(834年)父・夏野の造営した双岡山荘に嵯峨上皇が行幸した際、夏野の子息がそれぞれ昇叙されて秋雄は従五位下に叙爵し、同年侍従に任ぜられる。
承和4年(837年)10月の父・夏野の死去に伴い服喪のために官職を辞すが、翌承和5年(838年)正月には本官に復する。承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、山城国五道の一つである大枝道(山陰道の山城・丹波国境)を守護した[1]。承和13年(846年)左兵衛佐に任官する。
文徳朝では左兵衛佐・右近衛少将と武官を歴任する傍ら、丹波介・信濃介・備中権介と地方官を兼ねる。この間の仁寿3年(853年)に従五位上に昇叙されている。天安元年(857年)備中権守に転任し、翌天安2年(858年)には豊前守と文徳朝末期には地方官を務めた。
清和朝に入ると、天安3年(859年)左馬頭に任ぜられ京官に復す。貞観5年(863年)兄の滝雄の卒去と前後して正五位下に昇叙されると、貞観7年(865年)左近衛権少将、貞観8年(866年)従四位下と要職を務めて順調に昇進する。その後散位となるが、貞観12年(870年)大和権守に任ぜられ、右兵衛督を経て、貞観16年(874年)従四位上に至る。同年4月24日卒去。享年63。最終官位は従四位上行右兵衛督兼越前権守。
人物
[編集]射芸が得意で好んで強弓を引き、他に並び立つ人がいないほどの腕前であった。一方で、些細な行動を修めることをしなかった。また、飲酒が度を過ぎており、晩年は酒に酔いつぶれる日々を過ごし、殿上への出仕も十分にできないほどであったという[2]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 天長8年(831年) 日付不詳:内舎人
- 時期不詳:正六位上
- 承和元年(834年) 4月21日:従五位下。11月19日:侍従
- 承和4年(837年) 10月:解官(父服喪)
- 承和5年(838年) 正月:復本官
- 承和13年(846年) 7月17日:左兵衛佐
- 嘉祥3年(850年) 4月2日:兼但馬介
- 仁寿2年(852年) 2月28日:兼信濃介
- 仁寿3年(853年) 正月7日:従五位上
- 斉衡2年(855年) 正月15日:右近衛少将兼備中権介
- 天安元年(857年) 5月8日:備中権守。冬:辞官(母服喪)
- 天安2年(858年) 5月11日:豊前守
- 天安3年(859年) 正月13日:左馬頭
- 貞観2年(860年) 2月14日:兼但馬介
- 貞観5年(863年) 正月7日:正五位下
- 貞観7年(865年) 3月9日:左近衛権少将。3月28日:兼阿波守
- 貞観8年(866年) 正月7日:従四位下
- 貞観12年(870年) 正月25日:大和権守
- 時期不詳:右兵衛督
- 貞観16年(874年) 日付不詳:従四位上。日付不詳:兼越前権守。4月24日:卒去(従四位上行右兵衛督兼越前権守)