清原岑成
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 延暦18年(799年) |
死没 | 貞観3年2月29日(861年4月12日) |
改名 | 美能王(初名)→岑成王→清原岑成 |
別名 | 峰成、峯成 |
官位 | 従四位上・参議、大宰大弐 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 清原真人 |
父母 | 父:弟村王 |
子 | 永安、安良、安基 |
清原 岑成(きよはら の みねなり)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。当初美能王次いで岑成王を称するが、臣籍降下して清原真人姓を賜与された。舎人親王の玄孫。筑後守・弟村王の子。官位は従四位上・参議、大宰大弐。
経歴
[編集]天長5年(828年)近江大掾を経て、天長6年(829年)従五位下・筑後守に叙任される。その後、天長9年(832年)従五位上、天長10年(833年)正五位下、承和元年(834年)従四位下と、淳和朝から仁明朝初頭にかけて順調に昇進を重ねる。またこの間の天長10年(833年)には美能王から岑成王に改名している。
承和7年(840年)淳和上皇の崩御にあたっては、養役夫司を務めている。承和11年(844年)正月に越前守に任ぜられて赴任するが、休暇により帰京したまま隠棲して出仕しなかったことから、同年10月に弾劾を受けて解任され、さらに翌承和12年(844年)には位階も剥奪された。
承和13年(846年)赦されて再び正五位上に叙せられ、承和15年(848年)従四位下に復した。この間、大和守・美濃守・弾正大弼を歴任する。嘉祥2年(849年)臣籍降下して清原真人姓を賜与される。同年閏12月左中弁。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられる。仁寿2年(852年)2月に蔵人頭を解かれて再度越前守に任ぜられて現地に赴任するが、8月には弾正大弼として京官に復した。以降、斉衡2年(855年)従四位上・右大弁、天安元年(857年)大蔵卿と要職を歴任した。
清和朝に入り、貞観元年(859年)参議に任ぜられて公卿に列す。貞観2年(860年)大宰大弐となり大宰府へ赴任するが、翌貞観3年(861年)2月29日に任地で卒去。享年63。最終官位は参議従四位上行大宰大弐。
人物
[編集]清廉で正直であり、細かいことには拘らない性格であった。大和守在任時は盛んに官舎を改造し、政治の才能があると称賛された[1]。
逸話
[編集]岑成が大弐として大宰府に赴任したが、府の倉庫が著しく破損していたため、修理のために神社の木を伐採しようとした。ある人が、この神社に祀られている神は霊力があり祟りにより災いを受ける、として伐採を止めるよう諫言したが、岑成は聞き入れずに伐採を強行した。このために、岑成は病を受けまもなく没したという[1]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 天長5年(828年) 正月:近江大掾[2]
- 時期不詳:正六位上
- 天長6年(829年) 正月7日:従五位下。2月27日:筑後守[2]
- 天長7年(830年) 10月13日:近江介[2]
- 天長9年(832年) 正月7日:従五位上
- 天長10年(833年) 6月:美能王から岑成王に改名[2]。11月18日:正五位下
- 承和元年(834年) 正月7日:従四位下
- 承和7年(840年) 5月8日:養役夫司(淳和上皇崩御)
- 承和11年(844年) 正月11日:越前守[2]。10月23日:越前守解任
- 承和12年(845年) 11月2日:位階剥奪
- 承和13年(846年) 7月1日:子息の永安・安良・安基が臣籍降下(清原真人)[3]。7月20日:正五位上(再叙)。12月8日:班河内和泉田使次官
- 承和14年(847年) 1月12日:大和守[2]
- 承和15年(848年) 正月7日:従四位下
- 嘉祥2年(849年) 7月1日:美濃守。7月9日:弾正大弼。11月2日:臣籍降下(清原真人)。閏12月9日:左中弁
- 嘉祥3年(850年) 4月:蔵人頭[4]
- 仁寿元年(851年) 4月1日:出居侍従
- 仁寿2年(852年) 2月28日:越前守。8月22日:弾正大弼
- 斉衡2年(855年) 正月7日:従四位上。2月:右大弁[2]
- 天安元年(857年) 6月19日:大蔵卿
- 天安2年(858年) 正月16日:兼因幡守
- 貞観元年(859年) 12月21日:参議
- 貞観2年(860年) 正月16日:大宰大弐
- 貞観3年(861年) 2月29日:卒去(参議従四位上行大宰大弐)