深尾重良
表示
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 弘治3年(1557年) |
死没 | 寛永9年3月27日(1632年5月16日)[1] |
別名 | 通称:湯右衛門、次郎兵衛 |
官位 | 和泉守 |
主君 | 土岐氏→織田信忠→信孝→溝口秀勝→山内一豊→忠義 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 深尾家 |
父母 | 父:深尾重政、母:塚本成重の娘 |
妻 | 安東郷氏長女 |
子 |
深尾重忠室 養子:重忠(深尾重三子)、 重昌(山内康豊三男) |
深尾 重良(ふかお しげよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。土佐藩首席家老。土佐佐川初代領主。
生涯
[編集]弘治3年(1557年)、誕生。重良は美濃国山県郡太郎丸城主で、初め土岐氏に、次いで織田信忠に仕えたが、本能寺の変後は信孝、さらに溝口秀勝に従った。その間しばしば武功を挙げた。
天正13年(1585年)、山内一豊が近江長浜3万石の領主になった際、招かれ200人扶持を受け客分となる。天正18年(1590年)、小田原征伐では一豊に従って山中城を攻め、武功を挙げる。一豊が掛川領主になると3千石を給わる。慶長5年(1600年)、一豊に従って土佐国に入部し、佐川1万石を給わって首席家老になる。以来、忠義の婚儀、江戸城修築、名古屋城築城、大坂冬の陣・夏の陣、福島正則の改易など、ことごとく処す。寛永7年(1630年)、家督を養子の重昌に譲り、隠居料2千石を給わり高知に住む。
寛永9年(1632年)、死去。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.372
出典
[編集]- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年
|
|