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ブラゴヴェシチェンスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
海蘭泡から転送)
ブラゴヴェシチェンスク
Благовещенск
ブラゴヴェシチェンスクの市章
市章
位置
ブラゴヴェシチェンスクの位置の位置図
ブラゴヴェシチェンスクの位置
位置
ブラゴヴェシチェンスクの位置(アムール州内)
ブラゴヴェシチェンスク
ブラゴヴェシチェンスク (アムール州)
ブラゴヴェシチェンスクの位置(極東連邦管区内)
ブラゴヴェシチェンスク
ブラゴヴェシチェンスク (極東連邦管区)
ブラゴヴェシチェンスクの位置(ロシア内)
ブラゴヴェシチェンスク
ブラゴヴェシチェンスク (ロシア)
地図
座標 : 北緯50度16分12秒 東経127度31分48秒 / 北緯50.27000度 東経127.53000度 / 50.27000; 127.53000
歴史
建設 1856年
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 極東連邦管区
 行政区画 アムール州の旗 アムール州
 市 ブラゴヴェシチェンスク
市長 Aleksandr Migulya
地理
面積  
  市域 353 km2
標高 130 m
人口
人口 (2020年現在)
  市域 226,385人
    人口密度   701人/km2
その他
等時帯 ヤクーツク時間 (UTC+9)
郵便番号 675000-675999
市外局番 +7 4162
ナンバープレート 28
公式ウェブサイト : http://www.admblag.ru/

ブラゴヴェシチェンスクロシア語: Благове́щенск, ラテン文字転写: Blagoveshchensk、Blagoveshshensk)は、ロシア連邦都市シベリア南部のアムール州州都アムール川(黒竜江)を挟んで500メートル程の距離で中華人民共和国黒河市と向かい合う国境の街である[1]満州語ではhailan boo、中国語では海蘭泡 (Hǎilánpāo) と呼ばれる。人口は約23万人。モスクワから東に7,985km。

シベリア鉄道の線路から110 km。中国との国境線を形成するアムール川の左岸にあり、ゼヤ川との合流点に位置する。ブラゴヴェシチェンスクと対岸の中国の町、黒河市は自由経済地域とされ、黒河口岸を通じて国境交易が盛んに行なわれている。

町の名は、1858年にアムール川とゼーヤ川の合流点にブラゴヴェシチェーニエ聖堂(生神女福音聖堂)が建てられたことに由来する。なお、ロシア正教の「生神女福音」とは、カトリックにおける「受胎告知」に相当する。

歴史

[編集]

黒竜江沿岸は早くからダウール族ツングース系ドゥチェル族が居住していた地域である。現在のブラゴヴェシチェンスク市街南東25-30km、黒竜江東岸にある中国人居留地江東六十四屯璦琿古城(現在のグロデコフスキー遺跡)の地域には、遅くとも西暦1000年には両民族が住んでいたとされる[2][3]

この18世紀の地図には、チチハル省周辺のグロデコフスキー村遺跡の場所にAaihom ruin'd(愛琿古城のことか)と記されている。また、黒竜江対岸にSaghalien Ula Hotonと記されているのがアイグン(璦琿)。アムール川ゼヤ川が合流する現在のブラゴヴェシチェンスク市街に当たる場所には、特に何も記されていない

ロシアの商人探検家エロフェイ・ハバロフによって、この地域に1652年にはアイチュン、1683年から1685年にかけてはアイグンと呼ばれていたドゥチェル族の町があったと記録されている。

1689年康熙帝時代の清朝ピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、ネルチンスク条約では、ブラゴヴェシチェンスク周辺地域は清朝の領土とされた(清露国境紛争)。

その後、1856年にブラゴヴェシチェンスク市街地はロマノフ朝ロシア帝国要塞都市として建設された。アムール川の北部はに属していたが、1858年アイグン条約(璦琿条約)と1860年北京条約によって外満洲の一部として正式にロシアに割譲され、アムール・コサック軍の根拠地となった。この時、例外的に広さ約3,600平方キロの中国人居留地江東六十四屯はロシア領ながら清朝による管理が認められた。

20世紀初めにが発見されたことで急速に成長した。

1900年7月、ロシア帝国義和団の乱の一部で義和団が東清鉄道を破壊しブラゴヴェシチェンスクを占領した報復として、ブラゴヴェシチェンスク及び当時清朝が管轄していた中国人居留地江東六十四屯の中国人居留民をアムール川に追い込んで虐殺すると言う事件が起きた(被害者数は3,000人 - 25,000人と言われ不明確。アムール川(黒龍江)事件旧制第一高等学校寮歌アムール川の流血や」に登場する)。

1919年-1922年の日本のブラゴヴェシチェンスク占領を示すシベリア出兵宣伝ポスター

ロシア革命に続くロシア内戦が1917年に始まり、1918年3月6日、ロシア白軍の一部であるアムール・コサック軍が、ガモフの反乱ロシア語版を起こした。1919年にはロシア白軍を支援する日本軍シベリア出兵の一環として、ブラゴヴェシチェンスクを占領。1920年には極東共和国の一部となったが、日本は1922年に撤退しソビエト政権に統合された。

1932年にアムール州が設置され首府となった。 1975年にはアムール大学が国立大学として設置された。

気候

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真夏の気温は18~32、真冬の気温は-18℃~-32℃。その差は60℃以上になる。

ブラゴヴェシチェンスクの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 0.2
(32.4)
7.0
(44.6)
20.3
(68.5)
31.4
(88.5)
34.7
(94.5)
39.4
(102.9)
37.7
(99.9)
36.9
(98.4)
33.5
(92.3)
28.0
(82.4)
13.4
(56.1)
3.6
(38.5)
39.4
(102.9)
平均最高気温 °C°F −15.6
(3.9)
−9.5
(14.9)
−0.5
(31.1)
11.0
(51.8)
19.5
(67.1)
25.5
(77.9)
27.3
(81.1)
25.1
(77.2)
18.9
(66)
9.1
(48.4)
−4.8
(23.4)
−14.7
(5.5)
7.6
(45.7)
日平均気温 °C°F −21.5
(−6.7)
−16.3
(2.7)
−6.8
(19.8)
4.7
(40.5)
12.8
(55)
19.3
(66.7)
21.8
(71.2)
19.6
(67.3)
12.7
(54.9)
3.2
(37.8)
−10
(14)
−19.8
(−3.6)
1.6
(34.9)
平均最低気温 °C°F −26.2
(−15.2)
−21.9
(−7.4)
−12.6
(9.3)
−1.2
(29.8)
6.6
(43.9)
13.6
(56.5)
17.1
(62.8)
15.1
(59.2)
7.6
(45.7)
−1.5
(29.3)
−14.1
(6.6)
−24.1
(−11.4)
−3.5
(25.7)
最低気温記録 °C°F −44.5
(−48.1)
−45.4
(−49.7)
−35.7
(−32.3)
−17.7
(0.1)
−7.5
(18.5)
0.1
(32.2)
8.2
(46.8)
4.4
(39.9)
−4.3
(24.3)
−24.8
(−12.6)
−32.9
(−27.2)
−41.2
(−42.2)
−45.4
(−49.7)
降水量 mm (inch) 6
(0.24)
5
(0.2)
10
(0.39)
31
(1.22)
42
(1.65)
91
(3.58)
131
(5.16)
125
(4.92)
73
(2.87)
26
(1.02)
14
(0.55)
9
(0.35)
563
(22.15)
降雪量 cm (inch) 12
(4.7)
10
(3.9)
3
(1.2)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
1
(0.4)
4
(1.6)
8
(3.1)
38
(14.9)
平均降雨日数 (≥0.1 mm) 0.09 0.03 0.5 8 13 15 15 16 14 7 0.3 0 89
平均降雪日数 12 7 8 2 0 0 0 0 0 3 11 14 57
湿度 73 68 62 55 55 69 76 78 72 61 67 74 67.5
平均月間日照時間 139.5 194.9 226.3 222.0 251.1 255.0 226.3 226.3 168.0 189.1 156.0 124.0 2,378.5
出典1:Погода и Климат[4]
出典2:Hong Kong Observatory (sunshine only)[5]

交通と経済

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ブラゴヴェシチェンスクへはシベリア横断鉄道シベリア横断道路上のベロゴルスクからそれぞれの支線がある。イグナチェヴォ空港へは国内定期便、国際チャーター便が飛んでいる。また、アムール川ゼヤ川水運も利用できる。

アムール川対岸の中国黒龍江省黒河市へは2019年11月まではなく舟運に頼り、そこから中国の鉄道G202国道、または航空路で南のハルビンなどへ通じていた。2019年11月29日に中露国境を結ぶ初の道路橋である黒河・ブラゴヴェシチェンスク大橋(黒竜江大橋)が完成、2022年6月10日に開通し新たな国際道路網が形成されたことで、中ロの地方都市間の相互接続が実現した[6]

黒竜江大橋開通以前から、年間10万人以上の中国人観光客が訪れる。2000年代には合法なカジノだけで約20軒あり、「ロシアのラスベガス」と呼ばれた。ウラジーミル・プーチン政権が経済特区以外のカジノを禁止したため観光産業は打撃を受けたが、2019年時点では市当局黙認の中国人専用地下カジノが営業していた[1]

教育

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大学

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姉妹都市

[編集]

脚注

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  1. ^ a b 【70年の中国】中露国境の今/極東の橋 発展明暗/ロシア側 24時間カジノで誘客『読売新聞』朝刊2019年12月19日(国際面)
  2. ^ Maxwell, Neville (June 2007), “How the Sino-Russian Boundary Conflict Was Finally Settled: From Nerchinsk 1689 to Vladivostok 2005 via Zhenbao Island 1969”, in Iwashita, Akihiro, Eager Eyes Fixed on Eurasia, 21st Century COE Program Slavic Eurasian Studies, Sapporo: Slavic Research Center, Hokkaido University, pp. 56, http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no16_2_ses/02_maxwell.pdf 2009年2月24日閲覧。 
  3. ^ Амурская область: История. Народы Амурской земли Archived July 18, 2011, at the Wayback Machine. (Amur Oblast - the History. The peoples of the Amur Land) (ロシア語)
  4. ^ Климат Благовещенска”. Погода и Климат. October 17, 2011閲覧。
  5. ^ Climatological Information for Blagovescensk, Russia”. Hong Kong Observatory. October 17, 2011閲覧。
  6. ^ 中俄跨黑龙江公路大桥累计完成投资9亿元」『』新华网、2018年4月18日。

関連項目

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外部リンク

[編集]

座標: 北緯50度16分 東経127度32分 / 北緯50.27度 東経127.53度 / 50.27; 127.53