浅地神明社
浅地神明社 | |
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所在地 | 富山県小矢部市浅地7437 |
位置 | 北緯36度38分09秒 東経136度52分29秒 / 北緯36.63583度 東経136.87472度 |
主祭神 | 天照皇大神 |
社格等 | 村社 |
本殿の様式 | 神明造 |
別名 | 神明社 |
浅地神明社(あさじしんめいしゃ)は、富山県小矢部市にある神社である[1][2][3]。単に神明社とも呼ばれる[4]。旧社格は村社[5]。天照皇大神・豊受大神・天手力男命の三柱を祭神としている[5][6]。
歴史
[編集]貞観年間(859年 - 876年)に創建されたと伝わる[5][7]。砺波平野では、開墾により新たな集落ができると鎮守神として神明社を祀る習慣があったと思われるが、浅地神明社の由緒はこうした他の神明社とは異なり[8]、勧請によって[5]伊勢神宮の御師により創建・発展したものである[9]。文永(1264年 - 1275年)・弘安(1278年 - 1288年)の頃には、勅願所になったとされる[5]。浅地村村内の諸社の中でも特に崇敬を集め、御師は当社を拠点に布教に努めた[10]。
歴代の国司や領主からも尊崇を集め、桃井直常が病気回復の祈願を行った際には15貫文の山林地を社領として寄進した[5]。また、足利義政も祈願所と定めて太刀一振を寄付、増山城主神保長職も社領を寄進している[5]。しかし、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の越中侵攻の際、佐々成政の家臣の佐々平左衛門によって放火され[3][5][7]、本殿を始めとした社殿や所蔵品などを全て焼失した[5]。
江戸時代に入ると、本殿が再建され[7]、元和2年(1616年)には前田利常から[注 1]社領として10石5斗を寄進されている[5]。浅地神明社は、これを明治3年(1807年)まで伊勢の二見太夫に納所していた[5]。
境内
[編集]小矢部川の左岸近く[6]、蟹谷丘陵の山裾の[3]広い森の中に鎮座する[1]。鳥居の先に拝殿と社務所があり、さらにコンクリートの鞘堂に覆われた本殿がある[1]。本殿は、間口1.98メートル、奥行1.66メートルの[1]杮葺一間社神明造で[6][11]、全体として細造りで繊細な印象を与えるものとなっている[1][3]。
文化財
[編集]富山県指定文化財
[編集]- 浅地神明社本殿[11]
現地情報
[編集]所在地
[編集]交通アクセス
[編集]- あいの風とやま鉄道あいの風とやま鉄道線石動駅から小矢部市営バス(メルバス)蟹谷線で「浅地」バス停下車[6]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k とやま学遊ネット 2022.
- ^ a b とやま文化財読本 2021.
- ^ a b c d e f g h i 富山大百科事典編集事務局 1994, p. 24.
- ^ 小矢部市史編集委員会 1971, p. 783.
- ^ a b c d e f g h i j k l 小矢部市史編集委員会 1971, p. 830.
- ^ a b c d ワークス 1997, p. 112.
- ^ a b c d 小矢部市 2022.
- ^ 小矢部市史編集委員会 1971, pp. 785–786.
- ^ 小矢部市史編集委員会 1971, p. 786.
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1979, p. 62.
- ^ a b c d e f 富山県デジタル文化財ミュージアム 2021.
参考文献
[編集]- “指定文化財1(国・県指定分)”. 小矢部市役所. 小矢部市. 2022年2月18日閲覧。
- 小矢部市史編集委員会編 『小矢部市史』上巻 小矢部市、1971年。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 16 富山県』 角川書店、1979年。
- “文化財の紹介 浅地神明社本殿”. とやま学遊ネット. とやま学遊ネット. 2022年2月18日閲覧。
- 富山大百科事典編集事務局編 『富山大百科事典』上巻 北日本新聞社、1994年。
- “神社”. 富山県デジタル文化財ミュージアム. 富山県 (2021年2月24日). 2022年2月18日閲覧。
- “文化財資料一覧”. とやま文化財読本. 富山県 (2021年2月24日). 2022年2月18日閲覧。
- ワークス編 『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典16 富山県』 人文社、1997年。