泉野村
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いずみのむら 泉野村 | |
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廃止日 | 1955年2月1日 |
廃止理由 |
新設合併 ちの町、宮川村、金沢村、玉川村、豊平村、泉野村、北山村、湖東村、米沢村 → 茅野町 |
現在の自治体 | 茅野市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方(甲信越地方) |
都道府県 | 長野県 |
郡 | 諏訪郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
2,736人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 |
長野県諏訪郡玉川村、豊平村、原村、本郷村、南佐久郡南牧村 山梨県北巨摩郡大泉村、清里村 |
泉野村役場 | |
所在地 | 長野県諏訪郡泉野村 |
座標 | 北緯35度59分44秒 東経138度13分53秒 / 北緯35.99547度 東経138.23128度座標: 北緯35度59分44秒 東経138度13分53秒 / 北緯35.99547度 東経138.23128度 |
ウィキプロジェクト |
泉野村(いずみのむら)は長野県諏訪郡にあった村。現在の茅野市大字泉野[1]にあたる。
歴史
[編集]- 1862年(江戸時代文久2年)泉野村制定以前、槻木新田村[2]の大山祇神社に槻木の舞台が建設される(1995年<平成7年>10月2日茅野市指定有形文化財となる[3])。
- 1873年(明治6年)、現在の茅野市立泉野小学校の前身となる郷学校が下槻木に可悦学校(または槻木学校)、1874年(明治7年)に中道に磯辺学校が開校する[注釈 1][4]。
- 1875年(明治8年)3月7日 - 筑摩県第十四大区第五小区に属する中道村・小屋場村・槻木新田村・上場沢新田村・大日影新田村が合併して泉野村となる。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 筑摩県廃止にともない、長野県南第十四大区第五小区となる。
- 1879年(明治11年)1月4日 - 郡区町村編制法の施行により長野県諏訪郡となる。
- 1879年(明治11年)6月30日 - 大小区廃止にともない、玉川村との連合戸長役場(玉川村泉野村戸長役場)を玉川村中沢常勝院に置く。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に基づき、泉野村役場が発足。
- 1918年(大正7年)5月上諏訪村出身の藤森省吾[5][注釈 2]が泉野小学校長兼、泉野実業補習学校校長として赴任する。1920年(大正9年)3月までと、1928年(昭和3年)再任され[6]、1943年(昭和18年)退職するまで前後17年間、泉野村の教育に尽力した[7]。
- 1955年(昭和30年)2月1日 - ちの町・宮川村・金沢村・玉川村・豊平村・北山村・湖東村・米沢村と合併して茅野町が発足。同日泉野村廃止。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典 20 長野県
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 大日影区・槻木区・小屋場区・中道区・若葉台自治会(茅野市暮らしのガイドブック2019年20頁参照)
- ^ Jlogosホームページ・角川日本地名大辞典 槻木新田村(近世)の解説
- ^ 茅野市公式ホームページ・平成26年度 茅野ふるさと祭槻木舞台再現2014参照
- ^ 茅野市編『茅野市史 下巻』(1988年). NCID BN00549096 「第十章教育と文化」286頁から283頁参照
- ^ 諏訪市博物館・なんでも諏訪百科 - 藤森省吾
- ^ 藤森省吾 - コトバンク
- ^ 『茅野市史 下巻』586頁 「農村教育」 参照
- ^ 北村皆雄監督作品映画の撮影にも使用された。 諏訪信仰の映画「鹿の国」茅野市泉野の「穴倉」で撮影 - 全国郷土紙連合
注釈
[編集]- ^ 1872年(明治5年)、筑摩県(現:長野県)の権令だった永山盛輝が教育を重視し、学制頒布に先じ、郷学校百数十校を設置した
- ^ 諏訪教育博物館 (長野県博物館協議館公式サイト | 信州 Museum Guide諏訪教育博物館|諏訪教育博物館)に書簡、諏訪市立信州風樹文庫に 蔵書が所蔵されている