河野静雲
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河野 静雲 (こうの せいうん) | |
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誕生 |
河野 定運 1887年11月6日 日本・福岡県福岡市官内町 |
死没 | 1974年1月24日(86歳没) |
職業 | 俳人・僧侶 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 俳句 |
文学活動 | ホトトギス派 |
代表作 | 句集『閻魔』 |
主な受賞歴 | 西日本文化賞 |
子供 | 3男1女 |
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河野 静雲(こうの せいうん、明治20年(1887年)11月6日 - 1974年1月24日)は、日本の時宗の僧、俳人。福岡県福岡市出身。
来歴
[編集]明治20年(1887年)福岡市官内町(現在の福岡市博多区中呉服町)一行寺の裏辻佛譽の三男に生まれる。6歳のとき、同市片土居町の時宗称名寺住職河野智眼の養子となる。
福岡県立尋常中学修猷館に入学するが1年で退学後、明治38年に時宗宗学林を卒業し、大正3年4月より同7年3月まで同学林寮監兼教師となる。
大正9年より時宗総本山執事・宮城県亘理町専念寺住職に就任し、同12年6月に辞任。福岡市馬出の称名寺に寄寓。
昭和24年に、俳誌『冬野』の誌友の援助により、福岡県筑紫郡大宰府町観世音寺月山に花鳥山佛心寺を創建。
昭和49年(1974年)に、86歳で死去。
俳歴
[編集]俳句は高浜虚子に師事し、大正3年5月より『ホトトギス』に投句。博多俳人の指導につとめ、大正14年には清原枴童の俳誌『木犀』の創刊に末永感来、角菁果らと共に協力する。昭和5年には『木犀』を継承。
昭和9年に『ホトトギス』の同人となる。昭和16年には福岡県下ホトトギス系俳誌5誌、『無花花八幡』・『数の子門司』・『やまたろ筑後』・『櫟(くぬぎ)大牟田』・『木犀』合併の俳誌『冬野』の主宰となる。
昭和43年にはKBC九州朝日放送文芸部俳句壇の担当となる。
句風は滑稽味にあふれ軽妙。
著書
[編集]- 句集『閻魔』(静雲句集「閻魔」刊行会、1940年)
- 句集『閻魔以後』(西日本新聞社、1973年)