河合義文
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河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 - 没年不詳)は、日本の教育者・数学者。
経歴
[編集]富山県出身、第一高等中学校卒業、1894年(明治27年)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると1895年に現・金沢市の第四高等学校教授に就任[1][2]、やがて四高生の風紀の乱れを嘆く北条時敬校長に応え、1897年(明治33年)頃から「三々会」という修養の集まりに講師として西田幾太郎[3]、堀維孝、三竹鉄五郎らと参加する[4]。主担当の数学を教えるかたわら、1910年(明治43年度)から1916年(大正5年度)のあいだの5年間、物理担当の西英盛(明治5年生まれ)[5]をたすけて大学で専攻した物理学も教えた[6]。
1913年1月と9月(44歳前後)に学術調査のため出張を承認されている[7][8]。還暦を挟んで1928年度(昭和3年)から1931年度(昭和7年春)まで松江高等学校校長を務める[9]。
1920年代には大学受験雑誌上で数学を解説し、1931年には自らもその雑誌に受験を経て名を遂げたひとりとして取材された[11]。
主な著作
[編集]- 書籍
- 河合義文『高等学校理科用 数学教科書』第1巻(三角法)、北辰書院、1928年。NCID BA88999685。
- 務台理作 等 編「西田君の人と成り」『西田幾多郎 : その人と学』鈴木大拙 等、大東出版社、1948年、47-56頁。doi:10.11501/1038598。全国書誌番号:46001420。コマ番号0029.jp2-、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。
- 雑誌
- 研究社『受験と学生』に寄稿、掲載号は国立国会図書館内で閲覧できる[12]。
- 第3巻第5号「数学受験注意十七ヶ条」、p28-29 (0023.jp2)、1920年5月。
- 第4巻第7号「数学受験者の六欠陥」p12-13 (0016.jp2)、1921年7月。
- 第5巻第1号 NDLJP:3554717「一月より三月迄の短期能率的準備法 合格不合格の分岐点――どんな答案が不合格か」、1922年1月、p.84-96、p.97-102(コマ番号0067.jp2-)。寄稿者は竹内時男、須藤兼吉、岡田實麿、中村直勝、八波則吉、林原耕三、山田準、内藤智秀、池田清、渡邊謙二、勝田孝興ほか。
- 第6巻第1号「最少時間を以って最大効果を収むる受験凖備法(数学)」p.90 (0081.jp2)、第2号「(数学)」p.4-5 (0025.jp2)、第10号「(数学)一生の破壊より免るるには」p.3-5 (0005.jp2)、1923年1月-10月。
- 第7巻第6号「懸賞誌上模擬試験問題 (代数)」p.107 (0075.jp2)、1924年6月。
- 第9巻第11号「中学四年修了者と卒業者との比較」p.133-134 (0117.jp2)、1926年11月。
- 第10巻第3号「(数学)」p.14-15 (0038.jp2)、第11号「(数学)新傾向は従者への福音」p.144-146 (0125.jp2)、1927年3月、10月。
- 第11巻第4号「問題の考え方と答案の巧拙」p.60-62 (0056.jp2)、1928年4月。
栄誉栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 官報 1895, p. 281.
- ^ a b 竹村 2006, p. 16.
- ^ 務台ほか 1948, pp. 47–56, 「西田幾多郎 : その人と学」.
- ^ 松本 1978, pp. 80, 91.
- ^ 1900年(明治33年)10月27日に第四高等学校に着任した西英盛は山口県出身、山口高等学校本科第二部(明治26年7月卒)から理科大学へ進み物理学科をおさめる(明治29年)。福岡県尋常中学伝習館の館長心得から福井県福井尋常中学校に転じ、2年半後の明治33年半ばから第四高等学校で教壇に立つ2006。
- ^ 河合義文は西に劣らず在任期間が長く1895年(明治28年)7月から教授として四高在任33年間。大学では物理学科に学んだことから物理も担当し、西を助けた期間は5年にわたる[2]。
- ^ 官報 1913a, p. 27.
- ^ 官報 1913b, p. 465.
- ^ 財界評論新社 1967, pp. 34–43.
- ^ 受験と学生 1931, pp. 60–61.
- ^ 雑誌に河合と並んで紹介された人々に林春雄、清水文之輔、西田博太郎、堺利彦、稲毛詛風、森田草平の名が連なる[10]。
- ^ “「河合義文+研究社」の検索結果”. 国立国会図書館. 2021年5月15日閲覧。
- ^ 官報 1897, p. 246.
- ^ 『官報』第6085号「叙任及辞令」1903年10月12日。
参考文献
[編集]本文の典拠。主な執筆者または編纂者順。
- 「敍任及辞令 / ◯明治28年7月22日 七級俸下賜(7月19日文部省)第四高等学校教授 河合義文」『官報』第3619号、日本マイクロ写真、1895年(明治28年)7月23日、281頁、doi:10.11501/2946894、全国書誌番号:00084180。コマ番号0001.jp2、国立国会図書館デジタルコレクション。マイクロフィルム ; 35mm ポジ。
- 「授爵敍任及辞令 / ◯明治30年2月22日 陞授高等官六等 第四高等学校教授従七位 河合義文」『官報』第4090号、日本マイクロ写真、1897年2月23日、246頁。コマ番号0002.jp2、国立国会図書館デジタルコレクション。
- 「敍任及辞令 / 第四高等学校教授 河合義文 学術上取調ノ為京都岡山名古屋ヘ出張ヲ命ズ(1月29日第四高等学校)」『官報』第152号、日本マイクロ写真、1913年2月3日、27頁。コマ番号0002.jp2、国立国会図書館デジタルコレクション。
- 「敍任及辞令 / 第四高等学校教授 河合義文 学術上取調ノ為東京仙台ヘ出張ヲ命ズ(9月19日第四高等学校)」『官報』第347号、日本マイクロ写真、1913年9月23日、465頁。コマ番号0005.jp2、国立国会図書館デジタルコレクション。
- 「名士の受験生時代 / 林春雄 ; 清水文之輔 ; 西田博太郎 ; 堺利彦 ; 稲毛詛風 ; 河合義文 ; 森田草平」『受験と学生』第14巻第1号、研究社(編)、1931年1月、60-61頁、doi:10.11501/3554828、全国書誌番号:00011050。コマ番号0081.jp2、国立国会図書館内限定公開。
- 「§第2章 歴代校長とその時代 第3代校長・河合義文(昭3・4 – 同7・3」『翠松めぐる : 淞高篇』財界評論新社(編)〈旧制高等学校物語:第13〉、1967年、34-43頁。doi:10.11501/9541717。全国書誌番号:48007374。コマ番号0081.jp2-、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。別題『翠松めぐる:松江高校編』。
- 竹村松男「保存された四高物理機器 付.学制確立初期の物理教育事情」『資料館紀要』第4号、金沢大学資料館、2006年3月、1-25頁、NAID 120000808884。
- 松本晧一「北条時敬における人間と禅 : 臨済居士禅の事例研究」『駒澤大学佛教学部論集』第9号、駒澤大学仏教学部、1978年11月、74-91頁、ISSN 0389990X、NAID 110007018989、2021年6月1日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 板垣英治「金沢大学の淵源 : 加賀藩医学館から甲種医学校まで,および 石川県啓明学校・石川県専門学校の歴史」『金沢大学資料館紀要 創基150年記念別冊』、金沢大学資料館、2012年10月、1-148頁。