堀維孝
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人物情報 | |
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生誕 |
1868年2月8日 日本山形県鶴岡市 |
死没 | 1954年10月31日 (86歳没) |
出身校 | 山形中学校 |
学問 | |
研究分野 | 教育学(国語教育) |
研究機関 | 金沢旧制四高、学習院 |
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日[1]) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。
経歴
[編集]- 出生から修学期
慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。
- 教員として
同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった[2]。1888年に荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)が開校すると、同校の授業生に招聘された。その後、独学で教員免許を取得。1890年に飽海郡松嶺小学校校長に就いた。
山形、山口で中学教員を務めた。1898年、金沢旧制四高の助教授に就任。四高では、西田幾多郎の同僚であった[3]。その後、広島高等師範学校教授となった[4]。
大正5年(1916年)、第12代学習院院長の北条時敬に招かれて、学習院教授に就任。しかし、1924年に病のため学習院を退官した。1931年、武蔵高等学校の講師となった。戦後の1954年に永眠。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
著作物
[編集]- 『荻村堀先生遺稿』堀先生遺稿刊行会 1956
脚注
[編集]- ^ 堀維孝
- ^ 荘内英学会とは、西田川郡中学校の校長を勤めた弘田正郎が、校務の余暇に英語を教えてした私塾。西田川郡中学校の廃校によって、当時英学会会長であった俣野景次が克施に謀って、地方の要望に応えるため英学会の規模を拡大し、旧中学校の校舎を借りて開設された。
- ^ 「西田幾多郎の書簡に見る諸思想家 : 思想家についての記述と注解」『創価大学人文論集』19,2007年.
- ^ 在職教員の歴史(広島大学日本文学語学研究室)
- ^ 『官報』第6395号「叙任及辞令」1904年10月22日。
- ^ 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。