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河井重藏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河井 重藏
かわい じゅうぞう
生年月日 1854年
出生地 日本の旗 遠江国佐野郡上張村
没年月日 1925年
所属政党憲政本党→)
立憲国民党
親族 河井彌八

選挙区 静岡県郡部選挙区
当選回数 3回
在任期間 1902年 - 1903年
1904年 - 1908年
1909年 - 1912年

当選回数 2回
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河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日安政元年7月12日[1]) - 1925年大正14年)1月26日[2])は、日本政治家河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。

静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。

来歴

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生い立ち

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1854年遠江国佐野郡上張村(のちの静岡県掛川市)にて生まれた[3]

政治家として

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静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた[3]。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山鉱毒事件の解決に取り組んだ[3]。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家田中正造と知り合う[3]1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている[3]。また、河井が選挙に立候補した際に田中が応援に駆けつけるなど[3]、親密な交友が続いた。また、静岡県佐野郡掛川町(のちの掛川市)への東海道本線の誘致運動を展開した[3][4][5]1901年から1902年にかけては、同じく憲政本党に所属していた衆議院議員島田三郎らとともに、立憲政友会の政治腐敗を追及した[6]

その後、第7回衆議院議員総選挙に立候補し、当選を果たした。さらに、第9回衆議院議員総選挙においても当選を果たした。また、松浦五兵衛沢田寧の退任にともない、1909年に衆議院議員に補欠当選するなど[7]、3期に渡って務めた[3][8]。これらの活動から「遠州の熱血児」[9]などと呼ばれることもあった。

政策・主張

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農林水産

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農政分野について積極的に取り組んでおり、地元の山林問題について取り組んだ[3]。また、短冊状の苗代の問題点を指摘する「短冊苗代亡国論」を展開するなど[10]、活発な主張を展開した。没後、食糧問題に関する政策は『食糧問題に對する卑見』として纏められ、息子河井彌八により書籍化された[11]

経済産業

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静岡県佐野郡掛川町に鉄道を敷設するよう説き、東海道本線の誘致運動を展開した[3][4][5]。また、産業の育成を図るため、掛川銀行の設立に尽力した[4][5]

文教科学技術

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地元である静岡県小笠郡南郷村(上張村が他村と合併して発足。のちの掛川市)の青少年教育の機会を与えようと、尋常小学校の設立に奔走した[3][12]。その結果、1901年4月に、南郷村立尋常小学校の開校に漕ぎ着けた[12]。なお、このとき建設された校舎は、その後も南郷公民館や南郷地域生涯学習センターに転用されるなど[13]、112年間に渡って使用し続けられた[12]。この旧校舎は2013年1月に取り壊されることになり[14]、入居していた南郷地域生涯学習センターは、河井の生家跡地に移転することになった[13]

環境

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静岡県磐田郡佐久間村にて発生した久根鉱毒事件に関心を持ち、その解決に奔走した。1897年には、久根鉱山での採掘を停止させるよう建議した[8]。この建議を静岡県会に提出し、本会議にて採択させることに成功した[8]

人物

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新聞を愛読しており、家族や近所の者にも回覧させていた[15]。そのうえで、読み終わった新聞を、自宅の土蔵の中に保存していた[15]。その結果、土蔵の中には、『静岡民友新聞』など明治年間から大正年間にかけての新聞が、多数蓄積されることになった[15]。この新聞のコレクションは、1957年に河井家より静岡大学附属図書館に寄贈された[15]。後年、静岡大学春山俊夫の手により「河井家寄贈新聞目録」として整理、分類されている[15]

政治家の田中正造とは、同じ憲政本党に所属した政治家同士ており、両者とも鉱毒事件の対策に取り組んでいた。これらの経緯から交友が深く、書簡のやり取りなども行っていた。その一部は、歴史学者である由井正臣小松裕編纂した書簡集などにも収められている[16]。一方、河井家にも、書簡など田中に纏わる文物が遺されていた。河井家から掛川市教育委員会に寄贈された資料を調査したところ、その中から田中の直筆とみられる書簡やが発見されている[3]

家族・親族

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河井家は代々庄屋を務めていた家系であり、重藏は9代目の当主にあたる[4][5]息子河井彌八は、内務官僚を経て宮内省皇后宮大夫侍従次長を務め、のちに貴族院議員や参議院議長を務めた。

略歴

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著作

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単著

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脚注

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  1. ^ 衆議院『第十七回帝国議会衆議院議員名簿』(第十七回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1902年〕、13頁。
  2. ^ 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、197頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 「田中正造の直筆書簡発見――河井重蔵と深い親交――掛川」『田中正造の直筆書簡発見 河井重蔵と深い親交 掛川 | 静岡新聞静岡新聞社静岡放送2014年10月10日
  4. ^ a b c d 「田中正造の書簡、掛川で発見…市教委が公開へ」『田中正造の書簡、掛川で発見…市教委が公開へ  : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)読売新聞2014年10月13日
  5. ^ a b c d 「足尾鉱毒告発、田中正造書簡に伊藤博文の風刺画」『足尾鉱毒告発、田中正造書簡に伊藤博文の風刺画 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)読売新聞2014年10月13日
  6. ^ 筒井正夫「工場の出現と地域社会(4)――産業革命期における富士紡績会社と静岡県小山地域」『彦根論叢』318号、滋賀大学1999年2月26日、23頁。
  7. ^ 「帝國議會」『官報』7848號、印刷局1909年8月21日、388面。
  8. ^ a b c 「静岡の政治家、田中正造と交流――新資料、掛川で25点」『静岡の政治家、田中正造と交流 新資料、掛川で25点 - 産経ニュース産経デジタル2014年10月10日
  9. ^ 菜花石仏『知事十二人』前篇、知事十二人刊行会、155頁。
  10. ^ 河井重藏「短册苗代亡國論」『日本農業雑誌』4巻5号、日本農業社、1908年5月、8-14頁。
  11. ^ 河井重藏『食糧問題に對する卑見』河井弥八1926年
  12. ^ a b c 編集部「『南郷村立尋常小学校』の終焉」『ふれあい南郷』90号、南郷地域生涯学習センター、2013年3月31日、3頁。
  13. ^ a b 「歴史的役割を終えた旧南郷尋常小学校」『ふれあい南郷』90号、南郷地域生涯学習センター、2013年3月31日、2頁。
  14. ^ 「旧南郷学習センター112年の歴史に幕」『ふれあい南郷』90号、南郷地域生涯学習センター、2013年3月31日、1頁。
  15. ^ a b c d e 春山俊夫「私と新聞」『静岡大学附属図書館報「図書館通信」』18巻3号、静岡大学附属図書館1987年12月22日、2頁。
  16. ^ 田中正造著、由井正臣小松裕編『亡国への抗論――田中正造未発表書簡集』岩波書店2000年

参考文献

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関連人物

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関連項目

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