沖縄かりゆしFC
沖縄かりゆしFC | |
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原語表記 | 沖縄かりゆしフットボールクラブ |
呼称 | 沖縄かりゆしFC |
愛称 | かりゆし |
クラブカラー | オレンジ |
創設年 | 1999年 |
解散年 | 2010年 |
所属リーグ | 九州サッカーリーグ(解散当時) |
ホームタウン | 沖縄県那覇市 |
運営法人 | 株式会社沖縄かりゆしフットボールクラブ |
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沖縄かりゆしFC(おきなわかりゆしフットボールクラブ)は、沖縄県那覇市を本拠地として2010年1月まで活動していたサッカーのクラブチームである。
概要・歴史
[編集]1999年6月、沖縄県最大のホテルグループである「かりゆしホテルグループ」がスポンサーとなってかりゆしホテルズFCとして発足[1]。その年の天皇杯沖縄県予選会を兼ねた「沖縄タイムス杯県サッカー選手権」で準優勝する健闘を見せる。その後も「沖縄テレビ杯県社会人リーグ戦」も3部(東部ブロック)→2部→1部とステップアップし優勝を飾る。
チームが本格的にJリーグ参戦を目指すようになったのは、沖縄県社会人サッカーリーグ1部を制した2001年。同年3月に「株式会社沖縄かりゆしフットボールクラブ」としてクラブの法人組織化を行い、沖縄かりゆしFCに改称[2]。元ヴェルディ川崎のラモス瑠偉を選手兼テクニカルディレクターとして招聘し、サテライト(2軍)組織「かりゆしサウシーシャ」(県社会人リーグ所属)、ユース組織も確立した。同年には、第81回天皇杯に沖縄県代表として初出場を果たし、同年から3年連続で天皇杯沖縄県代表となる。
2002年には九州サッカーリーグで優勝し、JFL昇格がかかった全国地域リーグ決勝大会に駒を進めるが、惜しくも予選ラウンドで敗退。全国社会人サッカー選手権大会では、ホンダルミノッソ狭山FCと0-0の同点で両チーム優勝。なお、同年10月にラモスがTDを解任され[3]、12月には所属選手22人中21人が退団の意思を表明した[4]。その後、退団した選手やラモスが中心となって新クラブFC琉球を結成した[5]。
翌2003年は、加藤久がGM兼監督に就任し[6]、多数の新規加入選手を迎えた。同年は九州サッカーリーグを連覇し、天皇杯の1回戦ではJ2のサガン鳥栖を破った[7]。
2004年5月にかりゆしが同シーズン限りでスポンサードを打ち切る意向を表明し[8][2]、同年9月に加藤監督以下当時の所属選手27人全員が退団することを発表した[9][10]。同年10月に開催された全国社会人サッカー選手権大会ではホンダルミノッソ狭山FCと死闘を展開し、0-0の同点で終了(延長戦が台風のため行われなかった)という結果だったが、優勝を飾った[11]。トップチームの選手に続き2004年末に下部組織の選手113人も全員が退団し、加藤が代表となって「ヴィクサーレ沖縄」を設立した[12]。
2005年にはサテライト組織「かりゆしサウシーシャ」所属選手を中心としたチーム再編を推し進め、九州サッカーリーグに引き続き参加することとなった。
2007年には、第87回天皇杯出場権を2003年以来、4年ぶりに獲得。JFL所属のFC琉球や、九州サッカーリーグ所属の沖縄海邦銀行などの競合相手がいるにもかかわらず、同年から3年連続で本大会出場権を確保している。しかし、この年のシーズン終了後、事実上のプロ選手に支払われた給料の支払いを行わず、アウェー(九州の他7県での遠征)費用などを負担する方針を固めた。チームの運営費用の負担が年々増大していることからチーム存続のための経費削減策で、「少なくとも2010年までの3年計画で負債を返済し、九州サッカーリーグに生き残ることだけを考えて取り組む」という姿勢を打ちだした[13]。
その再建3か年計画の初年となった2008年には、5シーズンぶりとなる九州サッカーリーグ優勝を果たし、全国地域リーグ決勝大会出場を果たすが、第1ラウンド3戦目でホンダロック(同年は九州サッカーリーグで3位、全国社会人サッカー選手権大会で上位に入ることで同大会出場権を獲得)に敗れる。これでチームは第1ラウンド最下位となり敗退、相手のホンダロックはこの勝利によって同リーグ1位となり、最終的に2009年JFL昇格という対照的な結果に終わった。
2009年には、2002、2003年シーズン以来となる九州サッカーリーグ連覇を果たし、2年連続で全国地域リーグ決勝大会に進出することとなったものの、2年連続で予選リーグを敗退し、JFL昇格を逃した。その直後の2009年12月10日、2010年1月末でクラブを解散することを発表[14]。理由について、與那嶺茂社長は、選手給与や遠征費などの運営費が年間約5000〜6000万円掛かることを挙げ、「運営費をつくれないのが一番の大きな理由。創部11年で苦渋の決断」としており、Jリーグ参戦の前に、JFL昇格を果たせないばかりか、チーム再建3カ年計画の最終年を待たずして、チームは事実上の休部となった。クラブは存続を前提として県内外の企業と受け入れ先の交渉を進めたが、所定期間内に受け皿となる企業が見つからなかった場合は九州サッカーリーグへの復帰ができない可能性も示唆されていた。[15] 所属者の一部は、以前に沖縄かりゆしFCから分離・独立したFC琉球に移籍した。
チーム名の由来
[編集]「かりゆし」とは、沖縄県の言葉で、「幸せ」や「縁起の良いこと」を意味する言葉。「(沖縄)県民の夢と希望、そして活力を与えるチーム作りを目指そう」と言う意図で、付けられた。
チーム成績・歴代監督
[編集]年度 | 所属 | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | PK勝 | 分 | PK敗 | 敗 | 得点 | 失点 | 差 | 天皇杯 | 監督 |
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2000 | 沖縄県3部東 | 優勝 | - | 0 | - | 0 | 瀧田一之 | |||||||
2001 | 沖縄県1部 | 優勝 | 27 | 9 | 9 | - | 0 | - | 0 | 1回戦 | ||||
2002 | 九州 | 優勝 | 53 | 18 | 17 | 1 | - | 0 | 0 | 79 | 14 | 65 | 1回戦 | |
2003 | 優勝 | 54 | 22 | 16 | 2 | - | 2 | 2 | 73 | 14 | 59 | 2回戦 | 加藤久 | |
2004 | 2位 | 44 | 18 | 14 | 1 | - | 0 | 3 | 54 | 15 | 39 | |||
2005 | 8位 | 13 | 18 | 3 | 1 | - | 2 | 12 | 18 | 48 | -30 | 與那嶺茂 | ||
2006 | 5位 | 27 | 16 | 9 | 0 | - | 0 | 7 | 36 | 33 | 3 | |||
2007 | 6位 | 32 | 20 | 9 | 2 | - | 1 | 8 | 44 | 40 | 4 | 3回戦 | 仲本洋 | |
2008 | 優勝 | 47 | 18 | 15 | 1 | - | 0 | 2 | 56 | 16 | 40 | 3回戦 | ||
2009 | 優勝 | 42 | 16 | 12 | 3 | - | 0 | 1 | 54 | 16 | 38 | 2回戦 |
- ( )内の数字はPK戦での勝敗数
タイトル
[編集]リーグ戦
[編集]- 九州サッカーリーグ:4回
- 2002年、2003年、2008年、2009年
カップ戦
[編集]- 全国社会人サッカー選手権大会:2回
- 2002年、2004年
ユニフォーム
[編集]チームカラーはオレンジとマリンブルー。沖縄の太陽と海をイメージしている[16]。
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所属選手
[編集]最終シーズン(2009年)所属スタッフを記す
役職 | 氏名 | 備考 |
監督 | 仲本洋 |
最終シーズン(2009年)所属選手をポジション順に記す
Pos | No. | 選手名 | 前所属 | 移籍先 |
GK | 1 | 當眞嗣高 | かりゆしFC | |
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21 | 高橋信幸 | 1.FCザールブリュッケン | デッツォーラ島根 | |
DF | 2 | 杉本勇樹 | 鹿屋体育大学 | FC KAGOSHIMA |
3 | 堀内省吾 | ホンダロックSC | HOYO Atletico ELAN大分 | |
7 | 飯島慎 | 順天堂大学 | FC琉球 | |
8 | 島袋琢也 | 沖縄市SC | ||
22 | 堀健一 | 沼津香陵クラブ | ||
MF | 5 | 塗師亮 | 早稲田大学 | 東京ヴェルディ |
10 | 関隆倫 | ファジアーノ岡山 | FC琉球 | |
14 | 小寺一生 | 佐川印刷SC | FC琉球 | |
16 | 渡辺晋平 | 三菱自動車水島FC | ||
17 | 遠山深 | FC岐阜 | Tonan前橋 | |
23 | 樋口富夫 | 国士舘大学 | ヴォラドール松江 | |
28 | 臼井祥 | 大山高校 | 日本ウェルネススポーツ専門学校 | |
29 | 石井仁志 | 埼玉栄高校 | 尚美学園大学 | |
FW | 9 | 浅見和正 | ホンダロックSC | ソーマプライア |
11 | 櫻田真平 | FC岐阜セカンド | JAPANサッカーカレッジ | |
18 | 木島徹也 | MIOびわこ草津 | 松本山雅FC | |
20 | 浅野大地 | アルテ高崎 | バンディオンセ加古川 | |
24 | 島袋貴男 | 国士舘大学 | 海邦銀行SC | |
27 | 高畑浩二 | FC琉球 |
脚注
[編集]- ^ ラモス、県内チーム入り/かりゆしFC - ウェイバックマシン(2001年8月31日アーカイブ分) 琉球新報ニュース (2000年7月3日)
- ^ a b <かりゆしFC>かりゆしがスポンサー撤退へ - ウェイバックマシン(2004年6月29日アーカイブ分) 琉球新報 (2004年5月14日)
- ^ アーカイブ 2003年5月8日 - ウェイバックマシン 琉球新報 (2002年10月26日)
- ^ 沖縄かりゆしFC、21選手が退団表明 - ウェイバックマシン(2003年6月5日アーカイブ分) 琉球新報 (2002年12月2日)
- ^ 「かりゆし」退団選手ら「FC琉球」結成へ/サッカー - ウェイバックマシン(2004年6月5日アーカイブ分) 琉球新報 (2003年1月23日)
- ^ 沖縄かりゆしFC、加藤新監督が就任会見/「まずは選手集め」 - ウェイバックマシン(2003年7月3日アーカイブ分) 琉球新報 (2002年12月19日)
- ^ <天皇杯サッカー>かりゆし、J2鳥栖を撃破 - ウェイバックマシン(2004年6月25日アーカイブ分) (2003年12月1日)
- ^ 沖縄かりゆしメーンスポンサー撤退 - ウェイバックマシン(2004年6月3日アーカイブ分) nikkansports.com (2004年5月14日)
- ^ 沖縄かりゆし、監督と全27選手退団 - ウェイバックマシン(2004年12月30日アーカイブ分) nikkansports.com (2004年9月10日)
- ^ 沖縄かりゆしFC全選手が今季で退団 加藤監督も辞任 - ウェイバックマシン(2004年12月4日アーカイブ分) 琉球新報 (2004年9月10日)
- ^ かりゆしが有終の美/全国社会人サッカー - ウェイバックマシン(2004年12月13日アーカイブ分) 日刊スポーツ九州 (2004年10月21日)
- ^ ヴィクサーレ沖縄あす結成 かりゆしFC下部組織 - ウェイバックマシン(2005年1月12日アーカイブ分) 琉球新報 (2004年12月31日)
- ^ かりゆしFC 来季の給料打ち切り - ウェイバックマシン(2009年1月1日アーカイブ分) 2007年11月9日・琉球新報
- ^ サッカーかりゆしFC、2010年1月末で解散 - ウェイバックマシン(2010年4月20日アーカイブ分) 琉球新報 (2009年12月10日)
- ^ かりゆしFC解散「苦しい決断」 来季運営費捻出できず - ウェイバックマシン(2009年12月13日アーカイブ分) 2009年12月12日・琉球新報
- ^ チームプロフィール - ウェイバックマシン(2006年4月6日アーカイブ分) 沖縄かりゆしFC
関連項目
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