関喜誉仁
せき きよひと 関 喜誉仁 | |
---|---|
本名 | 同 |
別名義 |
沖 全吉 (おき ぜんきち) 沖 弘次 (おき こうじ) |
生年月日 | 1923年4月13日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 関東州大連市 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 劇場用映画(現代劇・時代劇、成人映画)、テレビ映画(現代劇)、ドキュメンタリー映画、PR映画、産業映画、教育映画 |
活動期間 | 1946年 - 1970年代 |
配偶者 | 有 |
関 喜誉仁(せき きよひと、1923年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。旧漢字表記関 喜譽仁[3][10][11]、別名に沖 全吉(おき ぜんきち)[4][6][7]、沖 弘次(おき こうじ)[10][11]。
allcinema等での読み「せき きよじ」[2][6]は誤りである[1]。
人物・来歴
[編集]マキノ雅弘の弟子として
[編集]1923年(大正12年)4月13日、関東州大連市(現在の中華人民共和国遼寧省大連市)に生まれる[1]。
旧制中学校に在学中、校内での月1度の選定上映で映画に夢中になり、東京に出て、日本大学法文学部芸術学科映画専攻(現在の日本大学藝術学部映画学科)に入学する[1]。同学在学中に、マキノ雅弘(当時は正博)に個人的に師事する[1]。関が満18歳であった1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦し、やがて戦況は激化、応召して1944年(昭和19年)9月に同学を繰り上げ卒業する[1]。出征先は中国大陸であった[1]。1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結、復員後の1946年(昭和21年)6月、マキノ正博が所長を務めていた時代の松竹下加茂撮影所に入社、助監督になり、大曾根辰夫(1904年 - 1963年)に師事する[1]。1950年(昭和25年)7月24日、同撮影所は火災を出し、翌年9月には、松竹京都撮影所は下加茂から太秦に移ることになる[12]。1951年(昭和26年)6月8日に公開された『獣の宿』(監督大曾根辰夫)でセカンド助監督、1952年(昭和27年)10月15日に公開された『武蔵と小次郎』(監督マキノ雅弘)でチーフ助監督を務めた記録が残っている[3]。
戦時統制で製作機能を失っていた日活が1954年(昭和29年)、調布に撮影所を新設、製作を再開するにあたり、関は日活助監督部に移籍する[1]。同社は、同年6月27日に公開された『かくて夢あり』(監督千葉泰樹)、同じく『国定忠治』(監督滝沢英輔)を皮切りに自主製作を開始[13]、関は、記念すべき第1作の『国定忠治』でチーフ助監督を務めている[3][7]。同年、同様に他社から移ってきた同世代の助監督に中平康、斎藤武市、鈴木清太郎(鈴木清順)らがいた[14]。翌1955年(昭和30年)2月18日に公開された『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』では、ふたたびマキノ雅弘のチーフ助監督を務め、1956年(昭和31年)1月8日に公開された第1作『丹下左膳 第一部 乾雲の巻』(監督マキノ雅弘)に始まる3部作では、棚田吾郎、後輩の内田一作(1928年 - 1983年)と共同で脚本を執筆した[3][8]。同年7月5日に公開された現代ものの青春映画『燃ゆる黒帯 花の高校生』(主演青山恭二)で監督に昇進した[1][2][3][4][5][6][7][8]。監督昇進第6作の『哀愁の高速道路』(主演小高雄二)が1958年(昭和33年)11月18日に公開されるが、同作を最後に同社を退社、以降、フリーランスになる[1][2][3][4][5][6][7][8]。
フリーランス時代
[編集]1959年(昭和34年)からフリーランスの監督として、ドキュメンタリー映画、PR映画、産業映画、教育映画等を手がけるが、前年11月に発足した朝日テレビニュース社(現在のテレビ朝日映像)で『朝日テレビニュース』を製作、同社が製作する教育番組のテレビ映画も製作した[1]。放映時期は定かではないが、金城哲夫が自主製作したテレビ映画『沖縄物語』を佐喜真勇とともに監督したのもこの時期である[9]。この時期、教育映画の現場で渡辺護が関の助監督を務めている[15]。1963年(昭和38年)には、プロゴルファーの陳清波(1931年 - )[16]の著書(報知新聞社、1960年)と同名の記録映画『陳清波の近代ゴルフ』を発表した記録があり[17]、また同年、日本映画監督協会を脱退している[18]。
1965年(昭和40年)4月、かつて関が在籍したころに日活にいた俳優の斎藤邦唯(1929年 - )[19]が製作に転向、映画製作会社・扇映画プロダクションを設立[20]、設立第1作として脚本を吉田義昭(1932年 - 1989年)とともに準備していた渡辺護(1931年 - 2013年)を監督に抜擢、『あばずれ』を製作する[21]。このとき、関はスタッフ編成に協力、撮影技師として竹野治夫、照明技師として村瀬栄一をそれぞれブッキング、関は「沖弘次」名義で「監修」としてクレジットされている[10][11]。同作を同年6月に公開した後、同社では、関に監督を依頼、同年8月公開の『嬲る』、同年8月公開の『妾の子』を製作した[4][7]。渡辺護の回想によれば、『嬲る』はアクション映画としてつくられており、関の演出は、マキノ譲りの非常に手際のいい演出であったという[15]。当時、関は42歳であった[1]。
1976年(昭和51年)12月24日に発行された『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)の関の項によれば、同時点において関は存命であり、東京都調布市に住んでいたことが明らかにされている[1]。以降の消息は不明であり、作品歴も没年も伝えられてはいない[1][2][3][4][5][6][7][8][9][22][23][24]。同書には、映画の演出等のほかに、書籍の校正や、原稿執筆もしたとあるが、国立国会図書館には「関喜誉仁」の名で書かれた書籍、雑誌の類は見当たらない[25]。1男2女あり[1]。
再評価
[編集]関が脚本参加した『朝やけ血戦場』(監督マキノ雅弘)は、2010年(平成22年)9月11日 - 同年10月1日に神保町シアターで行われた「幕末映画血風録!!」の特集上映、2014年(平成26年)2月9日 - 同年4月5日にラピュタ阿佐ケ谷で行われた「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第72弾 北原三枝」の特集上映でそれぞれ上映されている[26][27]。関が監修として参加した『あばずれ』(監督渡辺護)は、2014年に16mmフィルム短縮版プリントが発掘されて同年12月5日 - 同9日に神戸映画資料館で行われた「渡辺護 はじまりから、最後のおくりもの。」の特集上映で上映された[28]。
フィルモグラフィ
[編集]特筆以外は「関喜誉仁」名義、「監督」である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[3][29]。
1950年代
[編集]- 『獣の宿』[4](けもののやど、『獸の宿』[3]) : 製作小倉浩一郎、監督大曾根辰夫、原作藤原審爾、脚本黒澤明、主演鶴田浩二、製作松竹京都撮影所、配給松竹、1951年6月8日公開 - 監督助手(セカンド助監督)、『獸の宿』題で86分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『武蔵と小次郎』[4](『武藏と小次郎』[3]) : 製作小倉浩一郎、監督マキノ雅弘、脚本八木隆一郎・鈴木兵吾、主演島田正吾、製作松竹京都撮影所、配給松竹、1952年10月15日公開 - 監督助手(チーフ助監督)、『武藏と小次郎』題で96分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『国定忠治』[7](『國定忠治』[3]) : 製作星野和平、監督滝沢英輔、脚本菊島隆三、主演辰巳柳太郎、製作・配給日活、1954年6月27日公開 - チーフ助監督、『國定忠治』題で116分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『初姿丑松格子』[7](『「暗闇の丑松」より 初姿丑松格子』[3]) : 製作星野和平、監督滝沢英輔、原作長谷川伸、構成橋本忍、脚本堀江正太、主演島田正吾、製作・配給日活、1954年11月30日公開 - チーフ助監督、『「暗闇の丑松」より 初姿丑松格子』題で100分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『スラバヤ殿下』 : 製作高木雅行、監督佐藤武、原作菊田一夫、脚本柳沢類寿、主演森繁久彌、製作・配給日活、1955年1月23日公開 - チーフ助監督、86分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』 : 製作浅田健三、監督マキノ雅弘、企画・脚本八木保太郎・毛利三四郎、主演河津清三郎、製作・配給日活、1955年2月18日公開 - チーフ助監督、90分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『木曾の風来坊』[8](『木曽の風来坊』[8]) : 製作柳川武夫、監督小林桂三郎、原作長谷川伸、脚本八尋不二、主演坂東好太郎、製作・配給日活、1955年6月9日公開 - チーフ助監督
- 『白浪若衆 江戸怪盗伝』[4][8](『白浪若衆 江戸快盗伝』[7]) : 製作西原孝、監督小林桂三郎、原作並木行夫、脚本浅野辰雄、主演坂東鶴之助、製作・配給日活、1955年9月7日公開 - チーフ助監督
- 『丹下左膳 第一部 乾雲の巻』[8](『丹下左膳 乾雲の巻』[3]) : 製作水の江滝子、監督マキノ雅弘、原作林不忘、主演水島道太郎、製作・配給日活、1956年1月8日公開 - 棚田吾郎・内田一作と共同で脚本、『丹下左膳 乾雲の巻』題で82分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『朝やけ血戦場』[4](『朝やけ血戰場』[3]『朝やけ決戦場』[7]『朝やけ血戦場、鉄火の中』) : 製作坂上静翁、監督マキノ雅弘、原作村上元三、主演大坂志郎、製作・配給日活、1956年1月15日公開 - 内田一作と共同で脚本、『朝やけ血戰場』題で76分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『丹下左膳 第二部 坤竜の巻』[8](『丹下左膳 坤龍の巻』[7]『丹下左膳 坤竜の巻』[3]) : 製作水の江滝子、監督マキノ雅弘、原作林不忘、主演水島道太郎、製作・配給日活、1956年1月29日公開 - 棚田吾郎・内田一作と共同で脚本、『丹下左膳 坤竜の巻』題で61分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『丹下左膳 第三部 昇竜の巻』[8](『丹下左膳 完結篇』[7]『丹下左膳 昇竜の巻』[3]) : 製作水の江滝子、監督マキノ雅弘、原作林不忘、主演水島道太郎、製作・配給日活、1956年2月5日公開 - 棚田吾郎・内田一作と共同で脚本、『丹下左膳 昇竜の巻』題で79分の上映用プリントをNFCが所蔵[3]
- 『燃ゆる黒帯 花の高校生』 : 製作芦田正蔵、脚本陶山鉄、主演青山恭二、製作・配給日活、1956年7月5日公開 - 初監督
- 『妻恋峠』 : 製作茂木了次、原作・脚本松浦健郎、主演名和宏、製作・配給日活、1956年12月19日公開
- 『唄祭り喧嘩旅』 : 製作図師巌、脚本相良準三、主演長門裕之、製作・配給日活、1957年2月13日公開(映倫番号 10025)
- 『どうせ拾った恋だもの』[7][8](『どうせひろった恋だもの』[4]) : 製作茂木了次、脚本西島大、主演安井昌二、製作・配給日活、1958年4月1日公開(映倫番号 10594)
- 『アンコなぜ泣く』 : 製作芦田正蔵、脚本窪田篤人、主演牧真介、製作・配給日活、1958年5月27日公開(映倫番号 10667)
- 『哀愁の高速道路』(あいしゅうのハイウェイ) : 製作茂木了次、原作松浦義教、脚本石井喜一、主演小高雄二、製作・配給日活、1958年11月18日公開(映倫番号 10926)
1960年代
[編集]- 『沖縄物語』 : 製作金城哲夫・灘千造、脚本森田新・灘千造、主演清村悦子、1961年前後発表(テレビ映画・全3回) - 佐喜真勇とともに監督
- 『陳清波の近代ゴルフ』 : 原作・主演陳清波、製作アイディアワーク、1963年発表 - 監督[17]
- 『あばずれ』 : 製作斎藤邦唯、監督渡辺護、脚本吉田貴彰、撮影生田洋、主演飛鳥公子、製作扇映画プロダクション、配給新東宝興業、1965年6月公開(成人映画・映倫番号 不明) - 「沖弘次」名義で監修、60分の16mmフィルム版上映用プリントが現存[28]
- 『嬲る』 : 製作斎藤邦唯、製作扇映画プロダクション、配給新東宝興業、1965年8月公開(成人映画・映倫番号 14092) - 「沖全吉」名義で監督[4][7]
- 『妾の子』 : 製作斎藤邦唯、脚本佐井勘三、製作扇映画プロダクション、配給ムービー配給社、1965年9月公開(成人映画・映倫番号 14163) - 「沖全吉」名義で監督[4][7]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネ旬[1976], p.227.
- ^ a b c d e f Kiyoji Seki, インターネット・ムービー・データベース 、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 関喜誉仁・関喜譽仁、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 関喜誉仁・沖全吉、文化庁、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e 関喜誉仁、KINENOTE, 2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g 関喜誉仁・沖全吉、allcinema, 2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 関喜誉仁・沖全吉、日本映画データベース、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 関喜誉仁、日活、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d 関喜誉仁、テレビドラマデータベース、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d 監督作品解説、渡辺護公式サイト、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b c d 監督デビュー作『あばずれ』(65)のストーリーなど、井川耕一郎、渡辺護公式サイト、2015年6月3日閲覧。
- ^ 松竹下加茂撮影所、立命館大学、2015年6月4日閲覧。
- ^ 1954年 公開作品一覧 391作品、日本映画データベース、2015年6月4日閲覧。
- ^ 春のつまずき、鈴木清順、日本映画監督協会、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b 渡辺護、監督第二作『紅壺』について語る、渡辺護・井川耕一郎、2012年12月28日付、2015年6月4日閲覧。
- ^ 陳清波、コトバンク、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b 年鑑[1964], p.432.
- ^ 柿田[1992], p.123.
- ^ キネ旬[1958], p.137.
- ^ 田中[1976], p.85-86.
- ^ 1965年 公開作品一覧 509作品、日本映画データベース、2015年6月4日閲覧。
- ^ 記録映像.jp検索結果、一般社団法人記録映画保存センター、2015年6月4日閲覧。
- ^ 科学映像館サイト内検索検索結果、NPO法人科学映像館を支える会、2015年6月4日閲覧。
- ^ 作品登録データベース検索結果、公益社団法人映像文化製作者連盟、2015年6月4日閲覧。
- ^ 国立国会図書館サーチ検索結果、国立国会図書館、2015年6月4日閲覧。
- ^ 幕末映画血風録!!、神保町シアター、2015年6月4日閲覧。
- ^ 昭和の銀幕に輝くヒロイン 第72弾 北原三枝、ラピュタ阿佐ケ谷、2015年6月4日閲覧。
- ^ a b 渡辺護 はじまりから、最後のおくりもの。、神戸映画資料館、2015年6月3日閲覧。
- ^ フィルムリスト検索結果、デジタル・ミーム、2015年6月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 『テレビ大鑑 1958』、『キネマ旬報』増刊第207号、キネマ旬報社、1958年6月20日発行
- 『映画年鑑 1964』、時事通信社、1964年発行
- 『日本映画作品全集』、『キネマ旬報』増刊第619号、キネマ旬報社、1973年11月20日発行
- 『日本映画発達史 V 映像時代の到来』、田中純一郎、中公文庫、中央公論社、1976年7月10日発行 ISBN 4122003520
- 『日本映画監督全集』、『キネマ旬報』増刊第698号、キネマ旬報社、1976年12月24日発行
- 『日本映画監督協会の五〇年』、柿田清二、日本映画監督協会、1992年発行
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
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あばずれ 1965年6月公開 (扇映画プロダクション・新東宝興業) |
- Kiyoji Seki - IMDb
- 関喜誉仁 - KINENOTE
- 関喜誉仁 - allcinema
- 沖全吉 - allcinema
- 関喜誉仁 - 日本映画データベース
- 沖全吉 - 日本映画データベース
- 関喜誉仁、関喜譽仁 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 関喜誉仁 - 文化庁日本映画情報システム
- 沖全吉 - 文化庁日本映画情報システム
- 関喜誉仁 - 日活データベース
- 関喜誉仁 - テレビドラマデータベース