江紹杰
江紹杰 | |
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1919年撮影 | |
プロフィール | |
出生: | 1876年(清光緒24年)[1] |
死去: | 不詳[注 1] |
出身地: | 清安徽省寧国府旌徳県[1] |
職業: | 政治家・司法官 |
各種表記 | |
繁体字: | 江紹杰 |
簡体字: | 江绍杰 |
拼音: | Jiāng Shàojié |
ラテン字: | Chiang Shao-chieh |
和名表記: | こう しょうけつ |
発音転記: | チアン シャオチエ |
江 紹杰(こう しょうけつ、1876年 – 没年不詳)は中華民国の政治家・司法官。別号は漢珊[1][2]。北京政府では安徽派に属し、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会でも一時的に高官となった。王揖唐の側近の中でも趙之成と共に重鎮と目されると評価する文献もあるが[1]、本文で後述するように、その評価には疑義がある。
事績
[編集]北京政府での活動
[編集]清朝の進士で、日本に留学して法政大学で政治科を履修したとされる[1][3][注 2]。北京政府では1912年(民国元年)9月23日に司法部江蘇高等審判庁庁長兼呉県地方審判庁推事に任命された。翌1913年(民国2年)2月15日に両職を退き[4]、同年12月15日に政治会議議員に選出されている[5]。1914年(民国3年)5月7日、粛政庁粛政史に任命される。翌1915年(民国4年)1月27日に中大夫の位階を授与され、上大夫銜を加えられた[4]。
1918年(民国7年)8月12日、安福国会で安徽省から参議院議員に選出された[6]。王揖唐が安徽督弁兼省長となっていた時期の1925年(民国14年)3月7日、江紹杰は蕪湖道道尹に任命された。同年6月に王は安徽省各職を退任したが、江はしばらく事後処理のため安徽に残る。同年10月28日に安慶道道尹に移り、11月23日から12月1日まで省長護理となった。翌1926年(民国15年)2月までに安慶道道尹も退任している[3][4][7]。
親日政権での活動
[編集]中華民国臨時政府において、1938年(民国27年)9月、行政改革により内政部が新設され王揖唐が同部総長になる。『最新支那要人伝』や『中華民国法政大学留学卒業生人名鑑 法政大学創立七十周年記念』、『民国職官年表』などによれば、この時、王の片腕と称された江紹杰が内政部秘書長に任命され[8]、後に内政部次長に昇進したとされる[1][9]。しかし実際には、中華民国臨時政府『政府公報』に江の人事情報は全く見当たらない。また、内政部で次長に就いた人物も見当たらず[注 3][注 4]、公報上で確認できる内政部秘書長は呉甌(1939年8月9日就任)のみである[注 5]。そのため、江が臨時政府において正式に任官していたかどうかすら不明である[注 6]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立し、臨時政府が華北政務委員会に改組される。内政部は内務総署に改組され、王揖唐は考試院長として南京に移る一方、華北政務委員会委員長の王克敏が内務総署督弁(督弁は臨時政府の部総長に相当)を兼任した。同年5月4日、江紹杰は内務総署署長代理(署長は臨時政府の部次長に相当)に任命されている[3][10]。なお上述のとおり、臨時政府内政部次長の存在や江の任用が臨時政府『政府公報』上で確認できないため、華北政務委員会が成立した時点(3月30日以降)で初めて署長の職務に就いた可能性が高い。
『最新支那要人伝』によれば、江紹杰が署長として内務総署の実権を握って督弁の王克敏に抵抗し、国民政府中央に移った王揖唐の華北地盤を守り通したという[1]。ただし、前述及び後述の人事動向や文史資料の記述からすると、王揖唐と江との間に、かような信頼関係が存在していたのかどうか判然としない。また江の抜擢自体についても、王揖唐と王克敏との間で調整があったのかすら不明となっている。
実のところ、王揖唐は江紹杰を意中の内務総署署長とみなしていなかった[11]。1940年6月6日に王克敏が汪兆銘(汪精衛)らとの対立の末に委員長等を辞職し、王揖唐が後任になると、王揖唐は人事異動に着手する。同年8月31日、江は内務総署署長代理を辞職し[12][注 7]、内務総署秘書長代理の呉甌が在職のまま署長代理を兼任した[13][注 8]。王揖唐は江を政務委員会顧問に異動させている[11][注 9]。
以後、江紹杰の動向は不詳となっている。
注釈
[編集]- ^ 中国語版wikipediaでは「1932年没」としているが、明らかに誤り。
- ^ 法政大学中国研究会編(1949)、15頁に卒業生として記載されているものの、卒業年や学科は「不明」となっている。
- ^ 劉ほか編(1995)、1021頁は「江紹杰が1938年9月28日に内政部秘書長就任」と誤記し、呉甌を見落としているものの、「内政部次長」の欄を入れていないのは正しいと見られる。東亜同文会業務部編『新支那現勢要覧 第二回(昭和十五年版)』945頁においても、内政部秘書長として呉甌の名は記載されているが、「内政部次長」については欄も記述も存在しない。徐(2007)、400頁も、江の臨時政府任官について全く記載していない。
- ^ 1940年(民国29年)3月11日、春季孔子祭礼(春丁祀孔)の実施において王揖唐が臨時政府幹部に役割を割り当てている。この時、内政部秘書長の呉甌らがその対象として記載されているが、江紹杰の名前は無い。他の委員会・部の次長・秘書長、内政部の局長・参事も軒並み記載されており、内政部次長が存在するならば未記載は考えにくい。以上、臨時政府令、臨字第241号・第242 号・第243号、民国29年3月11日(『政府公報』第137号、民国29年3月16日、1-2頁)。
- ^ 内政部発足当初も次長と秘書長の任命が無く、局長と参事の任命のみだった。なお、同時に発足した財政部では秘書長の任命は無かったものの、次長に熊正瑗(1940年5月1日死去)が発足当初から就任している。
- ^ 顧問や参議など職務権限を有さない地位の任免であれば、公報に記載されない可能性はある。行政委員会では顧問の労之常と参議の池宗墨の就任につき公報記載があったが、他の参議は無い。また、臨時政府最高顧問となった呉佩孚と曹汝霖の就任も、公報に記載されなかった。
- ^ 『華北政務委員会公報』当該部分には「情辞懇切」という異例の文言が付されている。ちなみに王克敏の華北政務委員会委員長等辞職に際しても、公報の表現は同様だった。
- ^ 劉ほか編(1995)、1056頁では、呉甌が華北政務委員会成立当初の1940年3月30日から署長に就任したかのように記載しているが、これは誤りである。
- ^ 顧問への異動につき、『華北政務委員会公報』には記載が無い。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 東亜問題調査会(1941)、57頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1265頁。
- ^ a b c 徐(2007)、400頁。
- ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:江紹杰」
- ^ 劉ほか編(1995)、169頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、173頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、260-261頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1021頁。
- ^ 法政大学中国研究会編(1949)、15頁。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第11号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会8頁)。
- ^ a b 張(1963)、161頁。
- ^ 華北政務委員会令、会字第67号、民国29年8月31日(『華北政務委員会公報』第13-18期合刊、民国29年8月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会17頁)。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第565号、民国29年8月31日(『華北政務委員会公報』第13-18期合刊、民国29年8月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会28頁)。
参考文献
[編集]- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 張炳如「華北敵偽政権的建立和解体」中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会編『文史資料選輯 第39輯』中華書局、1963年。139-173頁
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 法政大学中国研究会編『中華民国法政大学留学卒業生人名鑑 法政大学創立七十周年記念』法政大学中国研究会、1949年。